1984年設立、国連経済社会理事会総合協議資格NGO 特定非営利活動法人AMDA

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シリーズ・支えられて35年

公開日:2019年11月28日
 
AMDA理事GPSP支援局長 難波 妙
 AMDAが生まれて今年で35年。その間、そして、それ以前の学生組織の時代から、私たちを支えていただいた方々がいる。このシリーズでは、こうした皆さんの声に耳を傾けながら、AMDAの「これまで」と「これから」を考えたい。
最初に登場いただくのは藤原健さん。古希を前にしても、現役の新聞記者であり、沖縄の近現代史研究者でもある(略歴は後述)。藤原さんのジャーナリストとしての生き方を3回に分けて連載する。第2回目は「魂(マブイ)との対話」。沖縄で藤原さんから聴いた魂(マブイ)の声を紹介する。


 
魂(マブイ)との対話
 
「沖縄戦の図」という絵の前で藤原健さんの想いに耳を傾ける。丸木位里、俊夫妻によって描かれた作品は、縦4メートル、横8.5メートル。巨大なキャンバスに展開する沖縄戦は、地上戦の地獄絵を伝え、人々の阿鼻叫喚、慟哭が聞こえるようだ。遺体を踏みつけても逃げ惑う住民の姿は、私の心を掴んで戦慄させた。そこに、藤原さんの低く、重い声が重なる。
「戦争は人災。だからこそ止められる。沖縄で苦しんできた/苦しんでいる人たちの心に触れながら、私たちの父親の世代は何をしでかしたのか、そして、私たちは戦後、何をしでかしつつあるのか。沖縄戦は何を守るための戦争であったのか。答えにつながる言霊を自分の身に埋め込み、それを伝えるために今、沖縄にいる」

「沖縄戦の図」 藤原健さん(左)と佐喜眞美術館館長 佐喜眞道夫さん
 

藤原さんの義理のお母様は「ひめゆり学徒隊」として戦場に動員され、奇跡的に生き残った。私が藤原さんに連れられてひめゆりの塔を訪れたのは8月後半、夏の暑さを忘れるほどの何とも形容しがたい重たい空気。息もできない苦しさを纏っていた。戦病、戦傷兵の看護を担った沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒222人。引率教師18人の総計240人。この多くが、激しい戦闘で地下壕や敗走中にその若く尊い命を失った。
藤原さんは、ひめゆりの塔の後ろに立つひめゆり平和祈念資料館に案内し、私に生き残った人たちがビデオに残した証言をしっかりと聞くように促した。この証言者の多くは既に亡くなっている。間近で亡くなった友のことを、友の最期の惨状を語るビデオの証言者たち。目を塞ぎ、耳を閉じることなく、事実を知るべきなのだ。
ひめゆり学徒隊が最初に従軍した沖縄陸軍病院があった南風原文化センターも藤原さんは見ておくべきと案内した。資料館の中には、野戦病院と化した傷病者の様子が再現されている。その中に「体験ベッド」があった。藤原さんが「横になってみますか?」と私の動揺を見透かして問う。私にはそこに横たわる心の強さはなかった。
米軍の艦砲射撃の合間を縫って、山の反対側に水を汲みに行く。その井戸は今もまだ残されている。しかし、その井戸のある敷地の家の前に停まっていた車中から地元の人がこう言った。「ここの家の人は戦争で皆、死んでしまったさぁ。今は誰もいないよ」と。世代を超えて、今は住む人のいない家をかつての隣人が守っている。まるで数年前の災害のことでも言っているかのように私には聞こえた。戦後74年、沖縄の人たちにとってそれだけ沖縄戦はまだ心のそばにある。
6月23日、沖縄は「慰霊の日」。沖縄全土が深い祈りに包まれる。この頃に月桃の花は咲く。大きな白い蝋細工のような花である。雑木林の中に咲くこの花は逃げ惑う学徒たちに、「死に急ぐな」と声なき声を投げかけていたかもしれない。ウチナーンチュは、理不尽な死に追いやられた魂に月桃に見守られながら深い祈りを捧げる。
ジャーナリストとしてこれまで、「身体障害者補助犬法」などの制定に心血を注ぎ、数々の功績を残してきた藤原さんが、人生の岐路に立ち、選んだのは沖縄だった。第二次世界大戦中、新聞のほとんどが戦争を煽り続けた事実を前に、ジャーナリズムの負の歴史に向き合うため、沖縄の大学院で戦後の沖縄が沖縄戦をどのように報じ、その記憶をどのように継承してきたのかを研究した。また、修士課程を修了した現在も琉球新報に大型コラム「おきなわ巡考記」を連載し、多くの人が知るべき沖縄の姿を発信している。沖縄の近現代史と現状を「自分ごと」としてとらえ、「今」を伝えていくことの大切さを紙面から読み解くとこができる。
藤原さんは、新聞記者の役割について「戦争に加担しない。戦争を阻止すべくジャーナリズムの力を発揮すること。権力を監視、局面によっては対峙すること。そして弱い者の側に立つこと」と、あるべき姿勢を語った。藤原さんはこのジャーナリストとしての使命と気概を、先の自身の著書『魂(マブイ)の新聞』に具現化した。戦争を煽った戦前の新聞人の責任を「自分ごと」として自らに厳しく問う。そのうえで戦後の沖縄の新聞ジャーナリズムが国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という憲法の原則に添って戦争の記憶を継承している姿を熱く語る。ジャーナリストとして背負うべき気概が痛いほど伝わってくる。





藤原 健(ふじわら けん)略歴
1950年、岡山県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。毎日新聞入社。阪神支局長、大阪本社社会部長、同編集局長などを歴任。スポーツニッポン新聞社常務取締役を退任後の2016年に入学した沖縄大学大学院現代沖縄研究科沖縄・東アジア地域研究専攻修士課程を18年修了。同年12月、『魂の新聞』を出版。19年3月、『魂の新聞』で現代沖縄研究奨励賞を受賞。現在、琉球新報客員編集委員として大型コラム「おきなわ巡考記」や沖縄戦関連の書評を執筆。沖縄大学地域研究所特別研究員。
共著書に『沖縄 戦争マラリア事件 南の島の強制疎開』、『介助犬シンシア』、『対人地雷 カンボジア』、『カンボジア 子どもたちとつくる未来』など。
95年の阪神大震災をきっかけにAMDAと連携してネパール子ども病院設立キャンペーンを展開。実現にこぎつけた。98年以降、介助犬の認知キャンペーンを始め、500回を超える連載、テレビドラマ化、兵庫県宝塚市と共催で毎年、シンポジウムを開いて啓発活動を展開するなどして身障者の社会参加を促す「身体障害者補助犬法」制定に尽力した。06年、毎日新聞の「戦後60年報道」で「平和・共同ジャーナリスト基金大賞」を代表受賞。


 
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