連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第29回
社会福祉法人 恩賜財団済生会支部岡山県済生会 支部長 岩本一壽 様
AMDAを支えてくださっている方々の様々なエピソードをインタビュー形式でお届けします。今回は、岡山済生会総合病院(以降岡山済生会)とともに歴史を重ねてこられた岩本一壽様です。 (聞き手:AMDA理事 難波 妙)
AMDA
岡山済生会で、国際協力を始めたきっかけについてお聞かせください。
岩本
1980年、カンボジアのポルポト派による大量虐殺で多くのカンボジア難民がタイに逃れました。その際、JICAから難民支援の医療班派遣要請が済生会本部にあり、岡山から、当院の中興の祖、大和人士院長[pagebreak]を中心とする医師4名、看護師6名を3か月間、タイに派遣しました。大和院長が出発前に菅波代表に熱帯医療について相談したことがある意味、岡山済生会とAMDAとの接点の原点です。つまりAMDA設立前からのご縁です。大和院長は、難民キャンプで、難民の救済のみならず、自分の健康は自分でまもる、「予防医学」を普及しました。
AMDA
大和院長の予防医学への取り組みが国際協力につながったということですか?
岩本
大和院長は、予防医学の視点から、1962年に瀬戸内海巡回診療船「済生丸」を就航させました。現在も岡山・香川・愛媛・広島4県済生会の合同事業として継続しています。岡山済生会は災害医療や国際協力の前に、予防医学の普及を一貫して行っているということです。
AMDA
阪神淡路大震災での支援でも済生丸が活躍しましたね。
岩本
発生直後、被災地に向かうAMDAに、岡山済生会の医療資材をごっそり託しました。震災発生翌日、当時、済生丸連絡事務所長をしていた私のところへ岡山県から済生丸による支援要請がありました。巡回診療で停泊していた松山港から岡山県に戻るまでの6時間のあいだに、県から要請のあった診療班とトラック5台分の支援物資を準備しました。済生丸は、1月19日午前1時に岡山港を出航。神戸新港から被災地まで交通手段がない中、医師2名看護師2名他2名は、自分たちが使う医薬品を担いで徒歩で長田区の真野小学校へ向かいました。船はJRが開通するまでは、岡山・神戸間をピストン運航。その後は神戸港での宿泊拠点となりました。このような活動を2月末まで継続しました。
AMDA
AMDAの海外関係者の医療研修にもご協力いただきました。
岩本
岡山済生会の運営基本方針の中に国際協力の推進があります。これまで、当院への海外からの訪問者は、1985年から2019年まで30か国から360人、訪問期間1か月以上の研修生は61人に上ります。私は医者ではありませんが、その歴史をともに歩んできた済生会の責任者として、国際協力の伝統を作った先達の志を守っていかなければなりません。
AMDA
2015年には菅波代表とともにベトナム175病院との協定締結に臨まれました。
岩本
ベトナムにはまだ家族で支え合う日本の昔の家族制度の精神が残っていると思います。今後もベトナムから特定技能「介護」の在留資格者を当会の経営する福祉施設で受け入れ、今後さらに厳しくなる日本の高齢化と人材不足に備えるためと人財育成に貢献すること、そして、日本の介護技術を母国で伝える「日本とベトナムの橋渡し役」を担ってくれることを願っています。
AMDA
AMDAに対する印象をお聞かせください。
岩本
AMDAは今や日本のみならず多くの国々で活躍する国際医療貢献団体で機動力は素晴らしく早い。加えて、菅波先生は「国際貢献は支援を受ける側にもプライドがある。押し付けの支援ではなく信頼関係をいかに築くかがポイントで、お互いを尊重する姿勢がないと成功しない」と常々言われています。先生の人間力、先を見据えて国や県、いろんな組織を巻き込む総合力をもった優れた指導者です。
AMDA
最後に、座右の銘をお聞かせください。
岩本
佐藤一斎さんの「一燈を揚げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め」です。