連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第28回AMDA理事モンゴル国立医科大学消化器科招聘教授 佐藤拓史 医師
AMDAを支えて下さっている方々の様々なエピソードをインタビュー形式でお届けします。今回は、AMDA理事 佐藤拓史医師です。(聞き手:AMDA理事 難波 妙)
AMDA
2015年ネパール地震から2016年熊本地震、ハイチ大型ハリケーン等、これまでの災害支援活動や、ネパール、モンゴル等での内視鏡技術、救急医療技術移転事業等を通して、AMDAの活動の特徴として最も強く感じる事をお聞かせください。
佐藤
昨年は、コロナ禍で7月の熊本豪雨支援活動がありました。活動初日から夜も吹きっさらしの球磨村さくらドームで活動を継続。降り続く豪雨、暗闇の中で強まる雨音に避難者の不安感が一層強くなっていくのを感じました。その不安に寄り添うことが我々の活動です。夜中でも現場で何か起こった時に適切に治療することが重要です。
このように被災された方々とともに時間を過ごす中で、何かあった時には医療チームが傍にいることが安心感と信頼感に繋がり、本当に必要としているものは何か、医療だけにはとどまらない明確な現場の声が聞こえてきます。
指示や依頼された事だけをやっていても聞こえない「声」です。これは、日本だけではなく世界各国に共通し、この「被災現場の声」に耳を澄ますことがAMDAの目指す活動だと思っています。
AMDA
その声が聞こえるかどうか、個人差があると思います。その原点はなんでしょうか?
佐藤
個人差があるかもしれません。
私の原点は、世界を見たくて20代前半にバックパッカーで各国をまわりました。 当時は宇宙の原理を紐解く数学者になるつもりでした。旅の中で、食べるために命をつなぐためだけの毎日を送る人々や、住むところがない子供たちと触れ合うことで、実は自分は何も知らなかったということに気がつきました。
そして自分自身が人生を拓いていかなければ何も変わらないと実感しました。国や地域によっては医療を受けることもなく亡くなっていく惨状を目の当たりにしました。29歳の時に出来ることなら自分の目の前では人を死なせない、何かできる人間になりたいと、医師になることを決心しました。その決心がアフガニスタン、カンボジアやアフリカ、スーダン等での医療支援活動を経てAMDAに繋がりました。
AMDA
コロナ禍でありながら今もネパール、モンゴル両国から内視鏡や救急医療の技術研修継続の依頼が入っています。今後のAMDAの支援活動をどうお考えでしょうか?
佐藤
日本の病院で治療したら助かる人たちが世界にはまだたくさんいます。これは誰もが知っている事実です。ではそのために何をすればいいか。それは医療者のみならず、同じ想いをもった人たちがその繋がりを広げて、日本やそれぞれの国において、次の世代を担う人間を育てることで次世代を創っていけると思います。私はこれからもAMDAの災害支援、そしてネパールやモンゴル、そのほかの国々での内視鏡技術の移転事業を継続していきたいと考えています。内視鏡技術が向上することで、早期に病変を見つけ、救える命を救うことができます。そのための仲間が増えることも願っています。近い未来が少し変わることは意味のあることです。それを繰り返すことで、その先の未来を大きく変えるかもしれません。そこにある可能性に耳を澄ませばAMDAの社会的意義は自ずと見えてくるでしょう。私もその一翼を担いたいと思います。