AMDAグループ AMDA国際福祉事業団による福島支援活動報告
複合災害の被災地「フクシマ」へ
AMDAグループ副代表 AMDA国際福祉事業団 理事長 的野 秀利
発災〜初動時の救援物資 シャトル支援と避難者支援
救援物資ミルクの仕分け |
東日本大震災の発災当夜、インド出張を切り上げて帰国を急ぐ菅波代表から東北への派遣準備や情報収集、関係官庁との連絡調整等にあたるよう指示があり、その中で、岩手・宮城の両県はAMDA本部が担当し、福島県は、公設国際貢献大学校の運営にあたっているAMDA国際福祉事星団が担当することが決まりました。
地震、津波に加え原子力発電所の被災状況が全く判らず確認情報がない中で、翌3月12日、大学校が災害に備えて物資を備蓄している防災訓練シェルターで救援物資を詰め込んだトラックが福島方面へと向かいました。これまで多くの国内外の救援活動に取り組みましたが、救援要請を受けず提供先も未決定のまま救援隊を出発させたのは、この大震災が初めてのケースとなりました。
大学校では、被災他政府・自治体等からの派遣要請により救援を行なうことを原則としています。しかし、この度の大震災では未曾有のインフラの破壊により、被災他の自治体が被災他の外にSOSが発信できない状況にあると判断されることから、初動・応急に必要とされる救援物資を詰め込み、とにかく福島方面へと向かいました。搬送先が会津若松市と決まったのは、福島県内の磐越道上の車中でした。
この1次隊は、会津若松市役所で救援物資の引き渡しを終え、浜通り等からの避難者のための避難所の立ち上げに協力した後、岡山へ引き返し、2次隊以降、会津若松市や福島市より要請を受けた毛布、オムツ、マスク、ブルーシート、おかゆ等多くの救援物資シャトル支援を実施しました。
中でも特に喜ばれたのが粉ミルクでした。ミルクは震災直後から人手が困難な状況となり、「飲み慣れたミルクでないと飲んでくれない」、「アレルギー対応のミルクしか飲めない」「これまで母乳が出ていたけど、震災の後から出なくなった」「ミルクの使用経験がないため、我が子にどのミルクが合うのかも分からない」等のニーズに対応するため、様々な種類のミルクを哺乳ビン等とともにお届けしました。
救援物資シャトル支援では、24年3月末の26次派遣までに衛生・栄養・除染・生活・介護支援用品・線量計・除雪機等、計101品目、534,476点を被災地(宮城県石巻市、川崎町を含む)へお届けすることができました。
ご支援を頂きました皆様には、厚く御礼申し上げます。
南相馬市長からの支援要請
難所学級 |
東日本大震災の発災直後から、日本中、いや世界中から多くの支援が寄せられましたが、福島県へは原発事故の影響により、被災地に入って行うボランティア等の直接支援が敬遠されていました。
そのような中で、桜井勝延・南相馬市長より要請を受け、約四百名の南相馬市民が避難している伊達市の体育館での避難所運営に協力することになりました。
この避難所は、浜通りからの避難者のために伊達市が設置し、そこには、南相馬市役所から職員が派遣されていました。市職員でなければできない公務以外はなるべく任せて頂き、少しでも早く市役所に戻って復旧・復興業務にあたってもらうよう努めました。避難者の皆様には、放射線対策のため閉め切った体育館から一日も早く仮設住宅や借上げ住宅に移って頂くよう転居支援に全力で収り組んだ結果、6月末、この梁川避難所は無事に閉所となりました。ひとえに避難所の設置者である伊達市と梁川近隣の皆様、大きな屋根の下で暮らす大きな家族のようになった避難者の皆様のご協力の賜物であります。そして、自らも被災者でありながら避難者に「ひとり市役所」として真摯に対応された南相馬市の職員へ敬意を表します。
南相馬こども支援キャンペーンなど
卒業式を前に 体育館の除染作業 |
4月22日には、福島第1原発から30キ口圏外の鹿島区の小学校や体育館で学校が再開されることとなりました。机や椅子は運び込むことができましたが、黒板は外して避難先の学校へ持ち込むことができず、スタッフが移動式黒板30枚(岡山県提供)を深夜まで組立て、やっと授業に間に合わせました。除染支援としての児童用マスクや雨合羽の各校配布や通学路の除染等を急ぎ、学校支援活動と避難所や仮設住宅訪問業務の両立に追われた日々でしたが、笑顔で迎えてくれる子どもたちからエネルギーをもらう毎日となりました。
現在、南相馬の仮設校舎で学ぶ児童・生徒や伊達市の学校支援を続けていますが、今後も長期にわたり学童支援プロゲうムを実施して参りたいと考えております。
今後の支援方針
「福島」は、この度の原発事故により、不本意な形で世界に知られることとなりました。
AMDA国際福祉事業団は、福島をふる里とし、その復興を担う子どもたちを支援します。
福島の子どもたちが、この大きな試練を乗り越えて世界の舞台で活躍するようになった時こそ、世界が福島の真の復興を確かめるときです。
東日本犬震災では、「絆」という言葉をよく耳にしますが、僕にとって「絆」とは、とても重い言葉です。僕は、「支援」を通じて福島の皆さんとの「ご縁」をもつことができました。これを何十年もかけて「絆」にしてゆきたいと考えています。
僕らの支援活動は、東日本大震災に対する社会の閉心が薄れてゆくこれからが正念場です。
これからもご支援をお願い致します。