AMDAスリランカ医療和平事業地・キリノッチを再訪して(2011/1発行ジャーナル1月冬号掲載) – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

AMDAスリランカ医療和平事業地・キリノッチを再訪して(2011/1発行ジャーナル1月冬号掲載)

AMDAスリランカ医療和平事業地・キリノッチを再訪して

Nithian VEERAVAGU ニッティヤン ヴィーラヴァーグ


スリランカ医療和平事業実施当時に学校を巡回し
健康教育を実施するヴィジター(右)

AMDAでは、内戦後のスリランカにおいて2003年4月から北部キリノッチ(ヒンズー教・タミル地域)、東部トリンコマリ(イスラム教・タミル地域)、南部ハンバントタ(仏教・シンハラ地域)の3地域において2006年7月まで、巡回診療・健康教育を中心としたスリランカ医療和平事業を実施してきました。その後、内戦は再び激化し、LTTE(タミルイーラム解放のトラ)が治めていたキリノッチから北東部にかけては激しい空爆に曝されました。スリランカ医療和平事業で現地事業副統括職を務めていたニッティヤン・ヴィーラヴァーグ(現AMDA本部緊急救援担当)が4年半ぶりに、この地を訪問し、かつてのスタッフ等との再会を果たしました。が、スタッフ等は皆、その親族や友人の中に一人は昨年の内戦による犠牲者をもち、またスタッフの中には未だに行方不明のままという人もいました。彼の報告から抜粋し紹介します。

長い内戦を経て、夫と11歳の娘、10歳の息子の4人家族でキリノッチに来ていたヴィジター・ラメシュワランは、キリノッチでのAMDAの巡回健康教育事業で3年間ともに働いた看護師です。AMDAの事業終了後間もなく再び始まった内戦の激化により、またも家や家財道具全てを失い、恐怖の中で暮らすこととなりました。2009年には絶え間なく続く爆撃の中で逃げまどい、時には爆撃による犠牲者や、餓死者の遺体のそばで夜を明かさねばならないこともありました。私は、子どもたちが目にした残虐行為や多くの死というものが、トラウマとなって残ることがないことを心から願います。
2009年の激しい内戦が終了した直後には、この地域のタミル人は皆、家族離れ離れで抑留キャンプで約6か月間暮さねばなりませんでした。ヴィジターの11歳の娘は親と離れ離れになったこの間に重い病気に罹っており、家族が再会できて九死に一生を得ました。抑留を終え2010年になり元住んでした場所に戻ってみると、跡形もなく何もかも無くなっていました。彼女ら一家は現在、国際機関により設営された仮設テント住居で暮らしています。夫は大工ですが、道具類もすべて失い、仕事に就くのは大変困難な状況です。しかし、一家は無一文から生活の再建を行おうと前向きに生きています。彼女の経験と現状は殆どのこの地域(キリノッチと周辺北東部)のタミル人が共有するものです。