AMDAグループ代表 菅波 茂
11月12日の午前6時40分。列車はカルナタカ州ウドゥピー駅に着いた。ウドゥピーは菜食主義として有名な場所である。M.S.カマト・インド支部長が迎えに来てくれていた。カマト先生の自宅で軽い朝食をいただいた後に、彼の所属するコンカニ・コミュニティ(インド全土で約600万人)の、アユルベーダ診療が主体の、診療所を見学した。パンチャ・カルマを行うアユルベーダ医師の助手を養成する将来計画のプログラムなどを見せてもらった。彼はマニパール大学アユルベーダ科教授を退職した後、毎週土曜日にはこの診療所でボランティア診療を続けている。ちなみに、パンチャとは5つ、カルマとは方法である。アユルベーダ医学の基本理論はトリ・ドーシャ説である。ピッタ、カパ、ヴァータという3つの要因の動的平衡がくずれた時に疾病が発生する。このアンバランスを5つの方法で治療するのがパンチャ・カルマの意味である。何故に3つなのか。インドのキーワードの数字は3である。日本も3である。しかし、中国では易の理論により4とか8である。
AMDAインド支部長カマト医師(中央)
別れ際に驚くべき数字を聴いた。20年前に購入した彼の自宅のそばを高速道路が建設され、彼の自宅の土地の値段が200倍になったとのことである。あの時に土地の購入に1億円を投資しておれば2百億円になっているわけである。驚いた。彼は将来、自宅を売却した時に得られる収入をアユルベーダ医学の発展のために使う予定だと教えてくれた。インド経済がインフレであると同時にものすごく発展していると認識をせざるを得なかった。いやはや、日本にいるだけでは絶対に理解できないインドの経済的発展の確証である。
ボルドワージ氏宅にて
午後には別れを告げて、マンガロール空港からバンガロール国際空港に飛んだ。バンガロールはインドのシリコンバレーとしても世界的に有名な産業都市である。1泊して翌朝にビハール州のパトナ国際空港に飛んだ。パトナではボルドワージ氏宅を訪問。今回のケララ州洪水被災者救援活動に不可欠な人脈の門を開いていただいたことに感謝の念を伝えた。ご縁とは不思議なもので、彼の自宅で29歳の才女に会った。4年間インド中央政府の国家災害管理局に勤務した後、現在は、インドの将来は農業にありと、有機農業の部門に奉職しているとのこと。インド政府は北部のシッキム地方(旧シッキム王国)全域で有機農業(お米と複数の野菜の循環方式)を推進しており、有機農業で栽培されたお米の価格は普通のお米の2倍の価格とのこと。インド全体に有機農業を拡大する方針であると教えてくれた。昨年に訪問したネパールの西部にAMDA病院があるダマック市はシッキム地方と国境を境にしている。昨年にお会いしたダマック市の市長がインドの有機農業の導入を考えており、日本の有機農業にも関心があると言ったのはこのことかと納得した。ちなみに、ダマック市長のおじが現在のネパール首相になる。私はアジアに有機農業の波が押し寄せる予兆を感じている。優秀な伝統的な日本の有機農業を積極的に紹介したく考えている。AMDA内部ではインドネシア支部がスラベシ島のマリノ村で有機農業を、新庄村の指導の下に、実施している。他の支部にも広げたいと考えている。
午後4時から4時間ほどの自動車の旅でブッダガヤに帰着。ブッダガヤは街中に様々な色のイルミネーションが灯り、人々であふれかえるエネルギーで盛り上がっていた。中国の次の時代はインドと言われている経済予測は具現化すると思った。毎年、新しい仏教寺院やホテルがどんどん建設されている。そして、予定調和説の如く、街全体が西に向けて発展している。日本政府の援助による仏教の聖地を結ぶ4車線のブッダロードの建設があちらこちらで見られる。私が昔から宿泊しているスジャータホテルはブッダガヤにおける三大高級ホテルと言われているが、従来の日本人の姿がほとんどなく、ミャンマ–、ベトナム、スリランカなど東南アジアの仏教徒で占められている。東南アジアの国々が経済的にどんどん豊かになっている証拠である。大きな時代の変遷をいやでも感じさせられる。
11月16日と17日は天理教岡山国際救援委員会の平野恭助氏の寄贈による衣類で前回の訪問時に配布しなかった冬物を2ケ所で配布した。16日はラジェッシュ氏の運営する小学校のあるイトラ村である。小学校には3km以内の8村から7百名の生徒が通ってきている。生徒の規律の良さには感服したが、人数の割には学ぶ教室の狭さと貧弱な設備には心が痛んだ。配布は村の公会堂で行われた。何とこの公会堂自体が未就学児のための学校を兼ねていた。3学年制だった。この村の住民はマンジと呼ばれる不可触賤民階級の最下層に属している。職業は土地を持たない小作農民で、収穫は地主と半分ずつ分けるとのこと。この分配率は小作農民に不利である。小作農に6割が正解と思える。
17日午前はスジャータ村近くにあるビクラム氏のジーナアミタッブ・ウェルフェア・トラストが運営する学校で実施した。ビクラム氏は幼少期、ブッダガヤに学校がなかったため、ブッダガヤにある日本寺で教育を受けていた経歴がある。スジャータとは苦行難行をしていたお釈迦様に牛の乳粥を差し上げた不可触賤民階級の娘である。クシャトリア階級出身のお釈迦さまはスジャータの差し出す乳粥を食してはいけなかった。しかし、乳粥を食して悟りへの道を進んだとの逸話が残されている。なお、配布する衣類には事前に生徒の氏名を書いた紙が付けられていた。配布前に生徒による楽器演奏と共に3組のグループが歓迎の歌を歌ってくれた。美しいハーモニだった。どのグループの子ども達も生き生きと輝いていた。地区のコンクールでたびたび優勝すると聞いて、なるほどと思った。
午後にはブッダガヤ・ロータリークラブとの災害支援に関するMOU締結のために、同じスジャータ村内にある、レストランSACHIに行った。MOUのサインはディベンドラ・パタック・ロータリークラブ会長、ミナクシ・AMDAインド支部事務局長そして私の3名が行った。ちなみに、レストランSACHIは名前の如く、日本女性と結婚したロータリークラブ所属の男性が経営している。ここでは別の一人の日本女性が日本料理を作っていた。ブッダガヤのインド人と結婚した外国の女性のほとんどが都会に移り住むが、日本女性の中にはブッダガヤに住み続ける人もいる。そして彼女たちの謙虚さに満ちた行動が日本人の評判を高めていると聞いた。