パレスチナ難民キャンプ出身の医師たちがAMDA と共に活動する意義(UNRWA、清田医師) – AMDA(アムダ)
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パレスチナ難民キャンプ出身の医師たちがAMDA と共に活動する意義(UNRWA、清田医師)

UNRWA保健局長 清田明宏医師

国連パレスチナ救済事業機関(UNRWA ウンルワ)保健局⾧ 清田明宏医師より、パレスチナ難民キャンプ出身の医師たちがAMDAと共に活動する意義について、手記を頂きました。



今から70年前の1948年、イスラエル建国を巡って第一次中東戦争が起こった。その戦禍を逃げるため、当時のパレスチナの地から75万人がガザ・ヨルダン川西岸、ヨルダン、レバノン、シリア等の近隣地域に逃れた。パレスチナ難民の発生だ。それから70年、彼らは依然難民のままだ。すでに3代にわたる家族もあり、その総数は530万人になる。20世紀からの最大の負の遺産とも言えるパレスチナ難民。彼らの問題が解決される見込みは残念ながら今はない。パレスチナをめぐる政治状況は極めて複雑で、全く先が読めない。



その彼らが、ロヒンギャ難民の支援に乗り出した。私が仕事をする国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA、ウンルワ)で働く二人の医師だ。UNRWAはパレスチナ難民の支援・保護をするために1950年からヨルダン、パレスチナ(ヨルダン川西岸・ガザ)、レバノンとシリアで活動をしている。これらの地域で143のクリニックを運営している。職員のほぼ全てはパレスチナ難民だ。その中で、ヨルダンで仕事をする二人の医師が今年の2月に2週間バングラデシュのミャンマー国境の街、コックスバザールに赴いた。



そのうちの一人がアリ先生だ。彼は1955年、まだ戦禍が残るヨルダン川西岸のパレスチナ難民キャンプで生まれ育った。1967年の第3次中東戦争の際には、戦禍を逃れヨルダン川を渡り、隣国ヨルダンに逃れた。その後一族の支援を受け、スペインで医学を勉強。ヨルダンにあるUNRWAの事務所で30年近く医師を続けた。同じくヨルダンのUNRWAのユセフ先生と一緒にバングラデシュのロヒンギャ難民キャンプに赴いた。2週間の医療支援活動をするためだ。



そのアリ先生にロヒンギャ難民キャンプの感想を聞いてみた。その答えに心が打たれた。“私がよく知っている景色がそのままあった。私が小さい時にいたパレスチナ難民キャンプの光景そのままだった。人々は俄仕立ての小屋・テントに住み、食状況・衛生状況は極めて悪い。極度の不安と強い絶望に負われていた。”その後、彼らの活動、キャンプで働く医師への医療指導等、様々な話をしてくれたのだが、“全く同じ景色だった”というアリ先生の言葉が耳を離れなかった。



1950年代のパレスチナ難民キャンプと同じ景色が2018年のロヒンギャ難民キャンプにある。この事実が持つ意味は非常に重い。当時少年であったアリ先生の目に見えたのと全く同じ景色をいまロヒンギャ難民キャンプにいる少年が見ている。同じ絶望を感じている。このことは決して許されることではない。国際社会の責任、というとあまりに漠然としているが、我々一人一人ができることを考えすすめていく必要がある。



その意味でアリ先生たちの訪問は素晴らしかった。難民として生まれ育ったアリ先生・ユセフ先生、ロヒンギャ難民の痛み・絶望を自分のこととして感じていた。バングラデシュから帰った翌日に二人に会ったのだが、今からすぐにでもロヒンギャ難民キャンプに戻って支援をしたい、と強い決意で話してくれた。難民だからこそできる難民支援、素晴らしいではないか。



私が働くUNRWAの医療従事者は素晴らしい。143のクリニックで530万人のパレスチナ難民に一次医療を提供している。糖尿病・高血圧の治療もする。出生前・産後健診をする。予防接種も。私は国際保健の仕事が長いが、これほど一生懸命仕事をする職員達を見たことがない。彼らの殆どがパレスチナ難民だ。パレスチナ難民の医療従事者がパレスチナ難民の命を守る。これほど素晴らしいことがあるだろうか。



私には夢がある。UNRWAの医療従事者と一緒になり、他の難民を助けるのだ。難民というのはその状況からして、非常に脆弱な人々だ。多くの人からの支援が必要となる。ただ、それだけではないのだ。難民だからこそできる難民支援があるはずだ。国境なき医師団という素晴らしい団体があるが、国境なきUNRWA(ウンルワ)医師団、それを作りたいと、ずっと思っていた。



その思いを、今回AMDAの皆様が助けてくださった。UNRWAの医師をぜひAMDAのロヒンギャ難民支援へ送りたい、という私の願いを快諾してくださった。AMDAは難民支援・緊急人道支援で日本のリーダーだ。AMDAの画期的な面は、通常は所謂豊かな国の人々が貧しい国の人々を支援する、という図式を完全に変えてしまったことだ。アジアの医師が連帯して、アジアの貧しい人を助ける、アジア以外の貧しい人を助ける。本当に画期的だ。



それを今回はもっと広げてくださった。難民の医師が他の難民の医療支援を支える。極言すれば、貧しい人型の貧しい人を助ける。こんな素晴らしいことがあるだろうか。“私が(幼少時にパレスチナ難民キャンプで)見た景色が(ロヒンギャ難民キャンプに)そのままある”、と言い切るアリ先生にしかできない難民支援が必ずあるはずだ。その可能性は無限だ。今回のAMDAが受け入れてくださった活動が持つ意義はそこにある。



個人的な話だが、私が35年前の学生時代、国際保健の仕事をしたい、と思った大きな理由の一つがAMDAの創設者、菅波先生に会ったことだ。高知大学の学生であった私は、岡山の菅波先生のご自宅・診療所に何度もお邪魔した。当時すでにAMDAを立ち上げていた菅沼先生のビジョンに深く感動し、私もいつかは、と思っていた。その菅波先生と今同じ仕事ができる。その幸運を今回は感じた。人の縁の素晴らしさに感激した。それも、パレスチナ難民とロヒンギャ難民が繋いでくれた縁だ。難民と難民を繋ぐ、その広がりは無限だ。それを強く感じている。