インドネシア共和国ロンボク島地震被災者支援医療活動報告2 – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

インドネシア共和国ロンボク島地震被災者支援医療活動報告2

AMDAグループ代表 菅波 茂

ロンボク国際空港からAMDA医療チームの活動しているRuskesmas Primary Health Centerに行く途中の道路の両側には地震により部分的に崩れたあるいは瓦礫と化した家屋が多く見られた。家のそばに張った粗末なテントが仮の家になっている。公共の場としてのモスクも壊れているし、更に地震の再発による全面的な崩壊が心配である。日本のように集団としての避難所は無いようだ。家屋はレンガ造りである。インドネシアはだんだんと豊かになるにつれて本来の木造から豊かさの象徴であるレンガ造りの家に変化してきている。しかし、地震の時は悲惨である。地震災害は上から、津波災害は横から襲ってくる。車中から地区ごとに医療チームがテントを張って活動しているのが見える。医療チームが偏らずに規則的に被災地に配置されていると思った。 

更に走ると、崩れた町中に青空市場が復活していた。そこでは野菜など日常生活に必要な食材が売られていた。多くの女性の姿が見られた。地震被災地は局所的であるから非被災地から生活に必要な物資が搬送することができる。一方、津波被災地は広範囲になるから日常生活の再建はすぐには無理である。今回は津波をともなわない地震被災であることがせめてもの救いであろうか。

戦争と災害は軍の専管事項である。多くの兵士が活動していた。そこはロンボク島の東西に走っている海岸線と山間線の幹線道路(二車線)が交わっているので災害被災者支援活動の生命線ともいえる重要な場所だった。ユンボなどの重機を使用して膨大な瓦礫を片付けていた。

東日本大震災と時も同様であった。津波による家屋等の瓦礫が埋め尽くした道路を自衛隊が瓦礫を除去しなかったら、民間団体の被災者支援活動は不可能だった。先般の西日本集中豪による小田川決壊による水位が4.5メートルにも及ぶ洪水被害を受けた倉敷市真備町も同様に瓦礫の山だった。自衛隊による幹線道路を塞いでいた瓦礫の整理が何よりもその後の支援活動には不可欠だった。ちなみに、膨大な瓦礫を撤去したのは環境省と倉敷市の要請により全国一般廃棄物環境整備事業協同組合連合会が岡山県環境整備事業協同組合を窓口にして100台の車両により撤去した事実も忘れてはいけない。

ロンボク島の地震被災地もレンガなどの瓦礫の山である。軍は個人の家の瓦礫整理および撤去までは支援しないし、そもそも人数的に無理である。どうするのだろうか。手による瓦礫処理である。どう見ても復興は長期的になる可能性である。

広大な広場に駐屯する軍のキャンプ群が見えてきた。地区病院の前の広場に規則正しくテント群と車両が並んでいた。災害支援活動の前線司令部の役割を実施していた。多くの軍関係者や民間団体の食生活は地元住民の小規模だが複数のお店によって支えられていた。東日本大震災の時には自衛隊は自給自足体制で暖かい食事をしていたが、AMDAなど民間団体は寒さの中を保存食でしのいだことを思い出した。海外のチームはどうなのだろうか。ネパール地震の時にタイの医療チームが参加していた。リーダーは友人のパイロ医師だった。東海大学に留学経験があり日本語が話せる。彼のチームの中には食事担当のコックがいた。台湾医師会の医療チームの中にも同じくコックがいた。日本から派遣される医療チームには食事担当のコックがいない。ちなみに、災害医療を実施する日本の団体では食事は保存食が原則。1週間以上の被災地生活には耐えられない。再考の余地がある。












話題が太平洋戦争にもどるが、海外に派遣されて死亡した日本兵の3百万人のうち、その原因の6割が栄養失調と病気だったとのこと。何故か日本人は戦闘行為を支える補給活動に関心が低い。今でも、自治体が主導する災害対策医療訓練と言えば、ほとんどのテーマがトリアージである。必要とされるのは、最初の2~3日だけである。本当に必要な食糧補給などロジスティックの対策は示されていない。すべてが医療チーム側の自己完結制である。ちなみに、来る南海トラフによる地震と津波災害では30万人以上が死亡、被災者は3百万人以上、加えて流通機能が30%に低下して2ケ月以上を続くとの政府発表である。壊滅状況にある被災地に大勢の医療チームが押しかけて食料をどうするのだろうか。日本の経済を支えている太平洋ベルトが崩壊したような状況においても、全国展開できる能力があるのは自衛隊、日赤と徳洲会グループぐらいではないだろうか。AMDAとしての南海トラフ災害対応プラットフォームは徳島県と高知県のみを対象に準備を進めている。

そこは軍の駐屯地であると共に民間の医療団体との合同医療協力活動の場でもあった。複数の医療用テントが張られていた。診察、検査、処置、薬などである。各地から派遣された医療団体と共に衛生兵、の姿もあった。2名の上級兵士が近づいてきて、「AMDAはシャワー用の水を持っているのか」と質問をした。この暑さにもかかわらず、満足にシャワー浴ができていないことが推察できた。私たちも阪神大震災の被災地で医療支援活動をした時に入浴がしたかった。どこも事情は同じかと思った。ただし、AMDAは東日本大震災の時から原則として入浴ができる施設を後方支援体制として整備するようにしている。

今回の視察で印象深かったのはBNPBと描かれた黄色のテントである。医療チームも使用し、被災者も使用していた。インドネシア大統領直轄の災害対応関連部局から提供されるとのことだった。日本では避難所があるためにテントの提供はない。ただし、2016年 月に発生した熊本地震の時に益城町で総社市と野口健氏が被災者に個別にテントを提供して大好評だった。プライバシが守られるからである。阪神大震災の後に、長田区に建てた「紙の教会」で有名な建築家の坂茂氏も避難所内を間仕切る形式でプライバシ確保の工夫をしている。若い世代では個別のテント方式が、高齢者の多い避難所では人間関係が保てる坂茂氏の間仕切り方式が好まれているようだ。

いずれにしても、日本が優れているのは気象予報と告知システムと避難所システムである。ただし、気候変動による水の災害は世界的に発生している事実は無視できない。日本、フィリピンそしてインドネシアがアジアの三大自然災害島国である。気候変動による水災害にもっと効果的に対応するためにも、それぞれの知恵を生かした対応策をお互いに取り入れる時期が来ているのかもしれない。AMDAとして、お互いに災害時医療支援活動に参加交流するプログラムを実施予定である。