インドネシア共和国ロンボク島地震被災者支援医療活動報告1 – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

インドネシア共和国ロンボク島地震被災者支援医療活動報告1

AMDAグループ代表 菅波 茂

2018年7月29日、8月5日そして19日にインドネシア中部のロンボク島でM6.3の地震が発生。500名近くの死者と35万人以上の被災者が避難所生活を送っている。AMDAインドネシア支部が8月1日から緊急医療チームを2回にわたり被災地に派遣している。活活動場所はRuskesmas Primary Health CenterとRSU Mataram, NTB病院である。

私は8月13日にマレーシア連邦首都クアラルンプールからスラベシ島のマッカサラ国際空港に飛び、15日にタンラインドネシア支部長と共にロンボク島のロンボク国際空港に着き、被災地で活動するAMDAインドネシア支部の支援と被災地視察を行った。

Ruskesmas Primary Health Centerは被災により破損しており、内部は崩壊の危険性があり使われていなかった。敷地にテントが2張りあり、診察と処置に分けられていた。疾患として地震災害特有の擦過傷や創傷などの小外科に加えて上気道感染症と下痢を主体にした胃腸疾患が多いとのことだった。なお、通常の疾患も対象であった。驚いたことに、2件の出産があった。母と子共に無事に分娩していた。個人的に、それぞれの母に1千円の祝い金を贈呈した。ひどく喜んでもらった。各地から派遣されてきた医療チームが、それぞれの名前が入ったカラフルなユニフォームを着て、協力し合って活動をしていた。私が知っていたのはAMDA(ハッサヌディン大学)とインドネシア-ムスリム大学(UMI)医療チームだった。医療支援活動が2週間になるので、そろそろと撤収準備に取り掛かっていた。







RSU Mataram,NTB病院は近代的な病院である。地震発生時にはこの病院の敷地を埋め尽くすほどの市民が避難をしてきた。2015年4月にネパールで地震が発生した時にもトリブタン大学教育病院の敷地は被災した市民で埋め尽くされていた。日本のようにあらかじめ避難所として指定された公共施設の制度が無いので、市民が病院に逃げ込んでくることになる。地震発生後数日間、患者は病院内敷地のベッドで点滴などの処置を受けていた。

地震災害特有な骨折患者の手術が行われた。病院内の手術室で1日30人ぐらいを3日間したとのこと。男女数は半々だった。8月5 日に2回目の地震が発生した時に、AMDA医療チームとして派遣された麻酔科医のYusuf Sidang Amin医師は右大腿退部骨折の患者に術前の腰椎麻酔を終了して、整形外科医がいよいよ手術を始める直前だった。その時に、患者は右足骨折と麻酔が効いているために自分で屋外に逃げることができなかった。「先生!逃げないでくれ。そばにいてくれ!」と大声で必死に懇願したため、彼と整形外科医は屋外に脱出しなかった。医師としてできなかったのが正解だろうか。他のほとんどの医療スタッフが屋外避難をした。その危機的状況の時に何を考えたのかと質問をした。「神様のことを考えていた」との返事。「奥さんではなかったのか」と大笑いをしたことである。

私が訪問した時には病院内の病棟は地震が再び発生する可能性があるので病院内敷地に30ベッドの入院テントを張っていた。看護師が3交代制で3人のチームとして勤務していた。当然、家族も付き添っている。私が訪問した後の8月19日午後10時に3度目のM6.9の強い地震が発生している。屋外入院で正解だった。ネパール地震の時も1週間後に2回目の地震により被災した市民の間に大パニックが発生している。今回のように3回も連続発生した過去の例を知らない。東北大震災の時も地震が2回発生したが、多くは1回目の地震でエネルギーの発露により後は鎮静化するのが常識だった。

恥ずかしい話を紹介する。80年ぶりのネパール地震の時にパニックになった市民を安心させようとテレビなどマスコミがサロージAMDAネパール支部長に緊急インタビュー番組を行った。彼はネパール精神科医学会長だった。私は彼にこう言った。「心配するな。日本は地震大国だが、過去に1回目の大きな地震の後に余震が続くが2回目は無かった」と。彼はマスコミのインタビューで私の言ったように説明をした。1週間後に2回目の大きな地震が発生した。彼は恥ずかしくて、3日間ほど家から外に出られなかったそうである。自然相手に断言するのは人間の不遜な態度であるとつくづく思い知らされた事例である。

なお、地震の時には骨折患者が特徴的な疾患であるが、手足の筋肉損傷により放出されたヘモグロビンが腎臓の尿細管に詰り腎不全を起こす「クラッシュ症候群」の話が全くでなかった。治療には人工透析が不可欠である。日本では1995年1月に発生した阪神大震災の時にこの疾患は有名になった。同じく1995年4月に発生したサハリン地震の時に、ロシア政府は「クラッシュ症候群」の患者をユジノサハリンスク空港からウラジオストックに航空機輸送で人工透析の治療を行っていたことを覚えている。インドネシアではジャカルタなどの大都市以外では人工透析がそんなに普及していないのかもしれない。

この病院の別の敷地に大規模な移動医療手術室設備があったのには感動した。さすがに自然災害多発国である。政府と民間の合同プログラムとのこと。3つのコンテナを2列に並べて、その横にテントを張っている様式である。テントは互いにつながっており、雨の日も大丈夫である。コンテナの中は手術室である。コンテナの横のテント空間は病床ベッド用空間(ICU)になる。エアーコンデションもある。おまけに移動トイレ車まであった。







この夏の西日本集中豪雨による大きな被害を総社市と倉敷市真備町が受けた。真備町では、ほとんどの医療機関が被災して医療活動が不可能になった。そこで丸亀市に本社のある一般社団法人瀬戸健康管理研究所(麻田ヒデミ所長)から移動診療車を借りてまび記念病院で保険診療を実施した。気候変動に対応した水の災害は必ず夏に起こるが、場所が不定である。移動診療車チームの本格的な編成が必要とされる時代になったと思っていた時で、非常に参考になる事例だった。ちなみに、岡山県健康福祉部が集中豪被害発生から6日目に災害基本医療法と並行して避難所など対象に保険診療の早期導入を決めてくれたことが追い風になった。血液検査など関連した会社が協力しやすくなったのである。厚生労働省からの巡回視察班もこの全国の災害被災者治療に先鞭をつけた保険診療導入の英断を高く評価していた。荒木裕人部長と則安俊昭医療推進課長のイニシアチブにあらためて感謝をしたい。

気候変動による集中豪雨による被災地が定まらぬ災害医療支援には移動診療車群方式が最適と考えているが、従来の災害基本医療法による診療に加えて保険診療が全国的レベルで認められることが大前提であることを指摘しておきたい。