連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第18回 岡山・倉敷フィリピーノサークル相談役 大山マージョリー様 – AMDA(アムダ)
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国連経済社会理事会総合協議資格NGO

連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第18回 岡山・倉敷フィリピーノサークル相談役 大山マージョリー様


AMDAを支えてくださっている支援者の皆様に、インタビュー形式で様々なエピソードをお伺いしている「支える喜びシリーズ」。18回目となる今回は倉敷市玉島勇崎の岡山・倉敷フィリピーノサークル(OPKC)の相談役(元代表)として、AMDAの活動にご支援を頂いている大山マージョリーさんにお話を伺いました
(聞き手・今井康人)

AMDA

早速ですが、西日本豪雨ではAMDAの支援活動を支えて頂き、ありがとうございました。

大山

被災後の8日間、私を含めOPKCの女子会員3人が順次現地入りし、ガラスの破片が散らばった公民館の清掃や熱中症患者の救急車手配、AMDA看護師のアシストなどに取り組みました。

AMDA

猛暑の中、大変でしたね。

大山

これまで祖国フィリピンが被災した際、AMDAはたびたび職員らを派遣してくださいました。AMDAには感謝の気持ちでいっぱいです。「今がその恩返しの時だ」と思って頑張りました。菅波代表がいつも話されている「困った時はお互いさま」の“相互扶助”の理念を実行しただけです。AMDAと一緒にフィリピンへの支援を求める街頭募金をしたことも良い思い出です。

AMDA

被災地を見たときはどうのように感じましたか。

大山

「ここが本当に日本なの?」と思わず叫びました。心とおなかに痛みが走り、早く支援をしなければ、と焦りも感じました。

AMDA

ところで、大山さんはいつから日本にお住まいですか。

大山

日本人の夫と結婚した直後の1999年1月から井原市上出部町に住んでいます。自然の豊かなところで、特に四季の移り変わりは感動的。いつも景色を見ながら神様に感謝しています。男の子2人にも恵まれ、幸せに暮らしています。

AMDA

OPKCの設立趣旨を教えてください。

大山

フィリピンと日本の国際文化交流など3項目を目標に2001年に設立。当時は会員7人でしたが、現在は岡山県内に約40人います。

AMDA

AMDAとの本格的な関わりは。

大山


菅波代表の依頼を受け、2008年にフィリピンの台風被害でAMDAと一緒に現地を訪れてからです。私は調整員兼通訳を務めました。その後、10回程度、AMDAから祖国の復興のために緊急支援チームを派遣してもらっています。

AMDA

フィリピンは熱帯性気候で、太平洋に浮かぶ7千を超す島々からなり、エメラルドグリーンに輝くビーチが人気と日本の観光雑誌に紹介されています。両国の政治関係も極めて良好で、2011年9月には「戦略的パートナーシップ」に位置づけされています。

大山

ますます両国が発展すると良いですね。私が今、取り組みたいのは祖国の食事内容の改善です。国民は野菜をあまり食べず、栄養バランスが悪い。平均寿命は短く、男性で65歳、女性で72歳程度です。学校では給食もなく、もっと日本の食文化を紹介していきたいと思っています。日本の皆様のご協力をよろしくお願いします。
(インタビュー内の敬称は省略させていただきました)



グロリア・メルカド フィリピン大統領府長官筆頭秘書官

AMDAの「開かれた相互扶助」を私達の国では「バヤニハン」といい、血縁関係を超えて家族のように助け合うことです。特に災害救援で、私のチームと活動する大山さんはこれを体現しており、義務ではなくボランティアとして祖国のために活躍しています。