「海外への災害支援に対する考えが変わった」
寺戸 通久 救急医
(岡山大学医療教育統合開発センター医学教育部門助教・岡山大学病院救急科)
民家を借りて診療 |
|
AMDAと岡山大学との間の支援協定に基づき参加しましたが、私にとってミャンマーという国やサイクロン被害に関してはTVやwebなどのニュースソースレベルの知識しかなく、とても縁遠いものでした。今回の派遣にあたり、正直、かなり戸惑いを憶えたのも記憶しています。私はかねてから、海外援助に関しては「日本の救急・災害医療供給体制すら満足とは言えない状態であるのに、敢えて国外の災害地まで出向いて医療支援を行う意味があるのか? まず国内の医療を十分に安定供給できるようにするのが先決で、更に余力があればその時初めて国外に目を向けることを考えても良いのではないのか?」という考えを持っていました。しかし、今回の支援活動を経験した後、この考えは改めざるを得ませんでした。なぜか。まず、私の見た被災地クンジャンゴン市の情景を点描してみます。…
一面の田園地帯。家々のほとんどは椰子の葉などで屋根を葺いているニッパハウス。木材やトタンなどで壁や屋根を覆っている家は裕福な家か。災害後残存した家々は全て同じ方向に根太ごと傾いている。防風林として植えているのか、椰子林が点在しているが、高さ数mから上は削ぎ落としたように幹や枝が吹き飛んでいる。幹の残っている高さまで洪水が押し寄せ、水面から顔を覗かせていた枝葉が全て暴風でなぎ倒されたのだという。道路は基本的に粘土と砂利を固めた簡易舗装道で、乾燥すれば土埃が舞い、雨が降れば泥濘と化す。現地は雨期。我々が巡回診療に向う先へ続く道は、それが道なのか沼なのか、田なのか区別がつかない。救援物資配給のための軍用トラックが頻繁に通り抜けていく。積荷は飲料水であったり、耕耘機であったり。徒歩すら拒む道なき道を移動できる唯一の手段が耕耘機だという。巡回診療先では、被災後1ヵ月を経過していたとあって、慢性疾患、呼吸器や皮膚の感染症、初期に十分な処置を行えていなかった外傷患者が目立つ。生まれて初めて医師に出会った被災者、数年前、あるいは幼少時から自覚していた症状を今回初めて医師に相談出来たという被災者も散見されるような医療事情である。…
私は今回このような、日本国内にいては想像し難い、本当に大規模な自然災害と貧しい医療事情を目の当たりにしてきました。被災者は、すでに1ヵ月が経過したとはいえ、まだまだ悲惨な状況下におかれていました。そのような中、母国の危機を救おうという気持ちで参集された現地ボランティアと共に、私は、短期間ではありましたが可能な限り、自分の出来る支援活動を行いそして、時間と資機材が許せば、もっと支援活動を続けたいという思いを残して帰国しました。
なぜ、海外での災害支援活動について前述したような考えを持っていた私が、このような気持ちに変わったのか、我ながら不思議でした。その答えのひとつに、やはり日本をはじめとする医療先進国(と言って差し支えないと思います)と、医療途上国とでは、一朝事ある時の対応能力に大きな差がある、ということがあるからではないかと思います。我が国で生後数十年、医者に会ったことが無い人間が果たして何人いるでしょう。ミャンマーでは、今回のような医療援助がなければ一生涯医者に出会うことが無かったであろう人たちが普通にいる。今回の活動中にも、日本で悲惨な事件や大地震がありました。若干の医療関係者チームが海外の災害医療支援へ派遣されたとして、活動中に国内で災害が起こっても、国内の災害復旧・医療援助や通常の医療サービスに支障を来すなど決してありえないほど日本の医療は充足していると、私は思います。日本にはそれだけの底力があるのだということを、ミャンマーの災害が教えてくれた思いがしています。
困った時はお互いさま、いい言葉だと思います。私には今まで、本当に困っている人たちに出会えていなかったのではないか、と思います。彼らにこそ、救援の手は差し伸べられるべきだと思います。わずかではありますが、差し伸べる手になり得たこと、その機会をAMDAが与えて下さったこと、そしてそれにより狭小な自分の考えを変えるきっかけを得られたことに、非常に感謝しています。今後も、災害などあって欲しくはありませんが、もし求められればいつでも、救いの手の一翼を担えればと思います。