AMDAを支えて下さっている方々の様々なエピソードをインタビュー形式でお届けします。今回は、頼藤貴志先生です。(聞き手:AMDA理事 難波 妙)
AMDA
医師を志したきっかけを教えてください。
頼藤
病弱であった子どもの頃、父に「人のためになるようなことをしなさい」と教えられ、シュバイツァーに憧れ、その興味は、国際保健へと広がっていきました。そして、大学時代に出身地(熊本県八代市)の近くで発生した水俣病に出会い、社会的要因が病気を作ることに気づきました。現在は、ヒトの病気の広がりや原因を調べる学問である「疫学」を専門としています。
AMDA
WHOの会議にも日本から唯一の専門家としてご参加されましたね。
頼藤
1年9か月のハーバード大学での客員研究員を経て、2013年にWHOの機関であるIARC(国際がん研究機関)の会議で、大気汚染が発がん性を有するかを評価し、その決定に関与しました。
AMDA
AMDAの活動に関わった経緯をお聞かせください。
頼藤
学生時代にタイに通い続けている頃にNGOに関心をもち、大学5年の時にAMSA(アジア医学生連絡協議会、1980年、菅波代表らが設立)の会議に参加したことがAMDAの活動に関わるきっかけとなりました。その後もAMDAのミャンマー事務所を訪問したり、2007年のAMDA Internationalのインド会議に参加したりしました。そして2016年の熊本地震の時は、緊急医療支援活動に医師として被災者救援にあたりました。
AMDA
その節は、大変お世話になりました。震源地、益城町の救護所では、地震で薬を無くし、色と形状しかわからない薬を懸命に調べる頼藤先生に何度も何度もお礼を言われた被災者の方、頼藤先生の姿勢に感動して、医学部に進学した当時の高校生など、支援活動の現場で頼藤先生のお人柄に支えられた人たちがたくさんいました。その後も2016年から19年、毎年アフリカ、ルワンダで行った児童健診、そして今年、7月の熊本球磨地方豪雨災害支援活動では、現在、岡山県感染症対策委員会委員として、新型コロナウイルス感染症対策に携わる頼藤先生に、被災地人吉市立第一中学校避難所でのAMDA災害鍼灸の感染対策を指導していただきました。これまでのAMDAの活動を通じて、どのような感想をお持ちでしょうか?
頼藤
AMDAの活動は、困った時はお互い様という「相互扶助」の活動理念など、言葉の定義がとても分かりやすいからこそ文化を超えて、支援する側とされる側がパートナーとしてつながっていると感じます。かつて、菅波代表と一緒に考えたのですが、私の医師としての信条は「時空を超えた命のつながり」です。これはAMDAでの活動にも通じています。
AMDA
頼藤先生は、水俣病研究をライフワークとされていますね。
頼藤
「現場を忘れた疫学は、きらめきと真実を見失う」という恩師の言葉から、今も毎月、水俣の患者さんのもとに通い続けています。重荷を背負わざるを得なかった患者さんたちと築いた長年の絆から、多くの生き方を学びました。水俣病の先達の研究を締めくくる事、そして、恩師が診てきた患者さんたちよりも長生きをすることが私の使命です。これからも常に被害を受けた人々の声に耳を傾け、「時空を超えた命のつながり」に科学的に貢献していきたいと思っています。