西日本豪雨の発生から10月6日で3カ月。鉄道網はほぼ復旧し、自治体が民間賃貸住宅を借り上げる「みなし仮設」などへの入居も進むなど、被災地は少しずつ復興へ向け進んでいます。一方で、依然として避難所に身を寄せる人もおり、生活再建にはなお時間がかかる見通しとなっています。
100年に1回の大雨
甚大な被害を受けた倉敷市真備町
「晴れの国」岡山を含む西日本各地を襲った豪雨災害。被害直後にさかのぼると、異例ずくめのデータが浮かび上がってきます。まず7月6〜8日、気象庁は「重大な危険が差し迫った異常事態」として最大級の警戒を呼び掛けました。7月平年比の雨量は山陽地方(岡山、広島県)で216%。防災科学技術研究所は「100年に1回程度の非常にまれな大雨だった」と分析しています。
岡山地方気象台によると、一日雨量が県内25観測地点のうち7地点で観測史上最大を記録。避難所にも県全体で一時、2万5千人以上が身を寄せました。死者は61人。住宅7,500棟以上が全半壊し、家屋の風水害では戦後最悪の大惨事となったのです。
被災地を勇気づけたボランティア
総社市下原地区にて活動する
AMDA調整員と総社市ボランティア
AMDAは7月7日から被災者支援活動を開始。8月31日までの活動期間中、派遣者総数は医師、看護師、鍼灸師ら265人(学生ボランティアを含む)。災害時の連携協力協定を結んでいる岡山県赤磐市、高知県黒潮町、徳島県海陽町・阿南市・美波町からも支援に駆けつけて頂きました。全国でも珍しい総合移動健診車(瀬戸健康管理研究所提供)や移動調剤車(総社・アイ薬局提供)も活躍しました。
岡山県社会福祉協議会によると、ボランティアは被災後1カ月間で県内外から延べ4万6千人にのぼり、被災者を勇気づけました。被災地の復興はこれからが本番。AMDAをはじめ、皆様の息の長い見守りが欠かせません。
医師、看護師、鍼灸師ら献身的な取り組み
西日本豪雨でAMDAの緊急救援(ER)ネットワークの医師、看護師、鍼灸師ら多数の医療関係者が、避難所などで献身的な取り組みをしました。医療関係者の声をご紹介します。
◇鈴記 好博さん(医師)
患者の方に「明日は誕生日ですね」と言葉をかけたら、声を出していつまでも笑い続け「私も忘れていた。心の中に違う風が吹いた。ありがとう」と言ってもらった。
◇堀内 美由紀さん(看護師)
機会に触れ「少し休憩をしたら」と声掛けをしていた被災者の方が、私が任務を終えてあいさつに伺うと、急に「私を一番理解してくれた」と涙され手を握られた。看護師としての仕事ができたかもと思った瞬間だった。
◇小林 大祐さん(鍼灸師)
「家を片付けたからといって、また住めるかどうかは分からない。かといって、放っておくのも辛い」。端的な言葉だったが、被災に対するやりきれない気持ちを感じた一言だった。
◇河田 里奈さん(保健師)
問診の中で肩痛や肩こり、不眠を訴える方が多く、疲労やストレスが窺えた。鍼灸治療の後、すっきりとした表情になられ、こちらも嬉しくなった。
◇藤本 瑞穂さん(調整員)
体調不良を訴える被災者が多かった。連日の炎天下での家屋の片づけで、心身ともに衰弱している様子がほぼ全員に見られた。
福島県からボランティア 猛暑のなか奮闘
一般社団法人Bridge for Fukushima(福島市五月町)は8月14、15日、西日本豪雨の被災地・倉敷市真備町でゴミ出しや水抜き、泥かきなどハードな作業に取り組みました。AMDAの活動に協力をして頂いたもので、参加した男女6人(20〜30歳)に聞き取りした感想を紹介します。
◆水抜きに約2時間。気温が高く体調管理のため活動制限があったので、思い通りできなかった。微力で申し訳ない。
◆最初に20分動いて10分休憩をとる予定だったが、実際はもっと頻繁に休まないと動けなかった。
◆けが防止のため長袖、長ズボンで入ったが、かなり暑かった。熱中症予防もあり、服装選びは難しいと思った。
◆暑さが堪え、とてもハードな作業だった。仲間同士で気を付け合った。
◆決して「大丈夫」と言わないこと。自分が倒れては迷惑をかけることになる。
◆今回の体験で学び取ったことを今後、他人と共有する必要がある。
【メモ】Bridge for Fukushima 福島県(県北・相双地区)の抱える課題を解決するため、首都圏とBridge(かけはし)となることをミッションとしています。2011年5月に設立、ボランティアは約30人。