AMDA東日本大震災国際奨学金の受給専門学校学生からの作文(2012/1発行ジャーナル1月冬号掲載) – AMDA(アムダ)
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AMDA東日本大震災国際奨学金の受給専門学校学生からの作文(2012/1発行ジャーナル1月冬号掲載)

AMDA東日本大震災国際奨学金の受給専門学校学生からの作文

私の地元は、南三陸町で津波の被害を受けました。私の家も被害を受けて、家族は避難所にいました。そこでは、友達や近所の方々など沢山の人達がいました。避難所では体を動かすことは少なくなり、活動量が減少していました。特に高齢者の人達は、歩けなくなったり、立てなくなったりと状況は悪くなるばかりでした。そこに、全国から来ていただいた医者、看護師、理学療法士の方々に助けていただきました。私には祖父と祖母がいるので、とても感動しました。私は理学療法士を目指しているので、この時の恩返しが少しでもしていけたらいいなと思っています。奨学金を頂いたら、この目標を叶えるために使っていきたいと思います。

私は、3月11日の大震災により津波の被害を受け、実家が宮城県石巻市門脇の海沿いに住んでいた為、10m程の津波を直接受け、家、車、会社、倉庫と全て流されてしまいました。幸いにも家族は全員無事でした。私は、津波で変わり果てた石巻市を見て、学校に通う為に家族を置いて仙台に行く事を悩みました。学校どころではないと強く感じました。しかし、家族はもちろん、学校の先生方や同級生のクラスメイトから、色々助けてもらい、どうしても卒業したいという気持ちが強くなりました。今回AMDA様からの御支援を受ける事になり、心から感謝しています。私は、津波という恐ろしい体験をしましたが、たくさんの人に支えていただき、優しさを感じ、感謝を忘れずに生きていきたいです。

今回の震災で私の家は大きな被害を受けました。父は仙台空港で働いており、地震の際に起きた津波により、車が流されてしまいました。自宅の方も、多くの家具が壊れてしまいました。また、今回の震災で、多くの友人を亡くしました。遺体と対面した時の衝撃は一生忘れないと思います。変わり果てた友人の姿を見て、言葉を失いました。それ以来、自分自身も生きる気力を失くし、何事に対してもやる気が起きませんでしたが、理学療法士になりたいという気持ちだけは、消えませんでした。亡くなった友人も前々から応援していてくれていたので、絶対に諦めたくありません。今回の震災で、色々と出費が多くあり、これ以上親に迷惑は掛けたくないので、奨学金をいただいて、少しでも親の負担を軽くしたいと思っています。宜しくお願いします。

今回の東日本大震災における奨学金の支援を受けるにあたり、私はより一層、人の力になりたいという思いが強くなりました
私の出身は、福島第一原子力発電所から20キロメートルに位置する、人口約三千人の小さな村です。農林業を中心とした過疎化が進む中、地震による爆発事故後、避難命令を強いられました。
将来は出身であるこの村に帰り、疾病予防や改善のため、運動教室を取り組む等、村民のために力になりたいと考えています。そして、少しでも早く、いつまでも長く孫から祖父母まで仲良く安全に暮らせる温かみのある村となるよう、希望を持ち歩んでいきたい。

奨学金を受けるにあたり支援してくださる方々に深く感謝しております。今回の東日本大震災で実家のある福島県は、原子炉の爆発という悲惨な事故に遭いました。実家は爆発した原子炉から10km圏内にあり今だに帰ることができません。父親も原発関連の会社に勤めていましたが、中に入ることが許されず仕事を失いました。今回の件で私は多くの人に支えられていることに気づきました。今後も理学療法士として医療や福祉の分野で人々の役に立てるよう日々の勉学に励んでいきますので、どうぞよろしくお願いいたします。