ニュージーランド地震緊急医療支援活動
岡山大学医学部医学科3年 村上 拓
日赤チームに引き継ぎをするAMDAチーム |
AMDAでは日本人看護師、保健師、医学生を派遣しての日本人被害者ご家族のケアと、オーストラリア国籍をもつ本部職員の調整員、サモア独立国からの医師を派遣してのオーストラリアチームとの合同医療支援と物資提供などを緊急活動として行いました。派遣者のひとり村上拓氏の報告を抜粋掲載します。
2011年2月22日午後12時51分、ニュージーランド南島クライストチャーチ市にてマグニチュード6.3の地震が発生した。これを受けてAMDAは緊急人道支援チームを編成し、24日に現地へと派遣した。この地震の震源はChristchurch市の郊外5kmの深さ4km付近で、非常に浅かったことと、同市では昨年9月4日にもマグニチュード7.0の地震があったことから、もろくなっていた建物が多数倒壊し、特に中心地には甚大な被害が及んだ。
今回、私はAMDAの調整員として第二次派遣隊の一員として加わり、2月27日〜3月4日の期間ニュージーランドに派遣された。仕事の内容は主に、日本のAMDA本部からの物資(薬など)を届けること、通訳、記録、不調を訴える方の対応、そしてご家族の話を聴くこと、などであった。
期 間:2011年2月27日〜3月4日
派遣者:石岡未和看護師、武田未央保健師、ヴィーラヴァーグ・ニッティヤーナンタン調整員、プニ・エミソ医師、村上拓調整員、医学生
(略)現地では、外務省とニュージーランド警察がご家族に向けて毎日死者数の更新や捜索作業の状況について説明していた。日本の新聞が報道するように、家族を放置しているような状況は一切無く、真摯に対応している。しかし、やはりニュージーランド側が情報を公開できる段階にまだ至っていないのと、混乱があってご家族のフラストレーションはピークに達していた。夕食後はAMDAと留学企画会社ワールドアベニューでミーティングをし、夜21時にご家族の方々と宿泊先のホテルへ向かった。 ホテルまでは送迎バスで1時間半もかかるが、余震の少ないメスベン市にある。これから帰国まではこのホテルでご家族の方々と一緒に泊ることになる。ホテルについてからは、緊張状態にあって肩が凝ったり関節炎を起こしているご家族に薬を配って回り話したいという人たちのお話を聴くことをずっとしていた。 看護師の方々と一緒にいると、「話を聴く」ことの、とてもいい勉強になる。結局、私が部屋に帰ったのは1時過ぎになった。ともかく、到着後あわただしく仕事に追われる一日となったが、無事初日を乗り越えることが出来た。
出来ること
何も出来ないかもしれないという思いで現地入りしたが、初日から忙しく働くことが出来た。もちろん、仕事と言ってもたいしたことは出来ない。ご家族の話を聞いて、必要なものは無いか・具合の悪いところは無いか、など把握する。具合が悪いと訴えられている場合は医師らと協力して薬などを処方・管理する。 あとはひたすら雑用、雑用、雑用。医学生の私には、本当にたいしたことは出来ない。「被災者家族のケア」だなんて驕りもはなはだしいと思う。しかし、私の持つ力で、役に立ったものが2つあった。それは、「通訳」と「しゃべりつづけること」。基本的にご家族は英語が出来ないので、私の主な仕事は家族に付きっ切りで通訳をすることであった。また、ご家族とお話をすることも重要だ。ご家族いわく「一番辛いのはただじっと待つこと。」である。ご家族は、何のインフォメーションも無いまま、行方不明の子供の照合をただただ待っている。 それ故、私のつたない通訳や会話が、少しでも彼らの役に立つのであれば、ここまで来た意味があるのだと思った。
午後12時51分、全員食堂のテレビモニターの前に集まり、中継を見ながら黙祷を捧げた。画面には被災地の今の状況や、集まって黙祷を捧げる人々の映像が流れる。ご家族はもちろん、我々スタッフも含め、その場にいた殆どの人が涙を流した。気丈に振舞っていた人も泣き崩れ、言葉にしがたい悲しみが空間いっぱいに広がった。中継終了後も声を上げて泣き続ける方もおり、我々はご家族への対応を続けた。
午後は、ご家族について息子さんや娘さんのニュージーランドでのホームステイ先まで行く手筈になっていた。被災した日本人留学生はみんなホームステイをしていたので、そのホストファミリーのところへ行き、被災した娘や息子がどのような生活をしていたか見て、私物を回収したいというご家族の要望は強い。しかし、ニュージーランド警察が私物の回収を禁止したため、(行方不明者の身元確認のために指紋採取などをしたいから。)結局丸一日、対策本部に缶詰になってしまった。 私物の回収は明日以降となる。自分の子供の荷物に触れることさえ許されない両親の苛立ちがひしひしと伝わってくる。
AMDAのもうひとつ、重要な仕事として、他団体へのサポートの「引継ぎ」がある。28日には日本赤十字社が現地入りしており、彼らはこの先3週間滞在する予定なので、数日後には引き上げる我々から仕事の引継ぎを行った。赤十字の方々は全部で8名到着しており、うち5名がワールドアベニュー側で、残りの3名がKings Education側で、被災者家族のケアにあたることになっていた。また、富山の医療組織、富山DMATもAMDAからご家族のケアを引継ぐことになっていた。この日はこの到着後のミーティングと、15時と、17時の計3回引継ぎの会議が行なわれ、石岡さんと武田さんが引継ぎ作業を行なった。私の仕事は、この引継ぎ会議の間ご家族についていることと、17時からの外務省の定例会見に出席し、出席できないほかのメンバーのために記録を取ることであった。
我々はご家族と共に10時半にボーンサイド高校に集合し、そこで警察や他の被災者家族と合流した。韓国や中国など各国の被災者家族や、現地ニュージーランドの被災者家族など、300人あまりがその場にいた。それから、全員がバスに乗り込み、危険区域内の「バスツアー」へと出発した。
危険区域内は、やはり被災地の中でも被害は群を抜いており、道路は未だに瓦礫であふれかえっていた。残念ながら危険区域内の写真をここに掲載することは出来ないが、多くの建物が倒壊し、店のガラスは大破し、アスファルトはめくれ上がっていた。また、多くのつぶれた車両が放置され、地震の激しさを物語っている。残った建物は倒壊が起きないように鉄製の足場が組まれ、支えられていたが、余震によってそれらも場所によって崩れていた。ただし、比較的新しいビルなどは、耐震構造がしっかりしているのか、ほぼ無傷で残っているものもいくつか見受けられた。しかし、留学機関のあったCTVビルは完全に崩壊しており、日本と中国のレスキュー隊が捜索に当たっていた。ご家族はバスを降りることは出来なかったが、レスキュー隊に花輪を渡し、CTVビル倒壊現場に供えてもらい、黙祷を捧げていた。バスでの訪問は1時間ほどであったが、家族が涙する中私は、あまりにも異様な光景に、それがまるで現実なのか夢なのかわからないような感覚に陥っていた。
罪悪感
「サバイバーズ・ギルト」という言葉がある。事故や災害、戦争などの生存者が、「自分は助かってよかったのか。幸せになっていいのだろうか」と、罪悪感に苛まれる状態で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の一種である。国際協力でもこれに似たことが起き、ボランティアスタッフなどが先進国の豊かで安全な日常に再適合できないというケースがある。
今回私は、たかだか3日半しか被災地にいなかったが、似たような感覚を経験した。クライストチャーチを離れ、オークランドで一日を過ごしたが、発展した市内の高層ビルを見ると、急に被災地の瓦礫の映像が重なったり、綺麗なお土産品とそれを笑顔で買う観光客が目に入った瞬間に、被災者ご家族の悲痛な表情がフラッシュッバックしたりした。また、自分はAMDAの仲間を残して、こんなところで何をやっているのだという悔しさが込み上げ、今すぐにでもご家族の元に戻りたい衝動に駆られた。
もちろん、航空券の関係上仕方の無いことだったし、オークランドという美しい街を見て回れたことも結果的には素晴らしい経験だった。残暑の日差しの中、のんびりと休息をとれたことで、身体の疲れは癒え、思考や心を整理することができ、この貴重な時間は自分にとって必要な時間なのだと自覚することが出来た。それと同時に、被災地を目の当たりにした時に、被災者の幸せを願うだけでなく、自分の幸せもしっかりと持ち続ける、というのは意外と難しく、大切なことなのだと気付かされた。
感想と感謝
今回、ニュージーランド地震の緊急医療支援チームの一員として被災地に派遣され、何を最も学んだか、と訊かれると、それはもう、己の未熟さと無力さを痛感した、ということ以外にはないと感じています。医学生である自分は、もちろん医療行為は出来ない、また、たかだか数日で出来ることはなお限られています。しかし、ともすれば足手まといになってしまうかもしれない身で派遣された私を、AMDAの方々は一人前の戦力として扱ってくれ、仕事に当たらせてくれました。その中で、自分には想像もつかないような辛さを抱えるご家族とお話し、その気持ちをどのように受けとめればよいのか、また、自分は彼らのために何が出来るのかということと悩みながらも向き合うことが出来ました。感情移入しすぎてもいけない、しかし、離れすぎてしまっては意味が無い。そういったジレンマの中で失敗を繰り返しながらもご家族と24時間一緒にいられたことで、3日目には、自分の中で話し方やアプローチの仕方のきっかけの様なものが少しずつ見えてきた気もします。また、被災直後の状況を実際に見ることで、現場のにおいや、余震の振動、瓦礫から巻き起こる土埃など、テレビを通しては得られない生の”被災地”を体験することが出来ました。
己の未熟さと無力さに打ちひしがれると同時に、私は、自分にも出来ることがあるのだ、ということも学びました。私の仕事は主に通訳やお話を聞くということ、体調不良者の対応、記録、などでしたが、情報に翻弄されるご家族にとっては、対応してほしい時に人がいることや、通訳がされるということはとても重要であったように思います。そして、ご家族の方からは「サポートしてくれるという気持ちだけで力になる」といった言葉をいただき、無力で未熟なりにも自分があの場にいたことには意味があったのかもしれないと考えさせられました。
また、緊急医療支援の現場に行くことで、たとえば災害発生から72時間までは外科や救急医療が重要となること、今回のような心のケアが必要なケースでは精神科の技術が必要となること、そして、体調不良者の対応には内科の知識が必要不可欠であることなどが良くわかり、この先医学生として4年生、5年生、6年生と勉強を進めるに当たっての目標やビジョンを具体的にあることが出来ました。現地での経験を生かし、なお一層勉学に励み、将来は半人前の医学生としてではなく、一人前の医者として医療協力に携われるようにしたいと思っています。
2011年3月10日
(村上さんは、このあと東日本大震災のAMDA緊急医療支援に参加し宮城県志津川小学校避難所に入りました)
96年当時AMDAの中国地震被災地復興プロジェクトにUNボランティアとして参加くださった大坪紀子さんが、この度のニュージーランド地震の犠牲者となられてしまいました。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。 |