東日本大震災緊急医療支援 派遣者報告(2011/4発行ジャーナル4月春号掲載) – AMDA(アムダ)
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特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

東日本大震災緊急医療支援 派遣者報告(2011/4発行ジャーナル4月春号掲載)

東日本大震災緊急医療支援 派遣者報告

AMDAの活動に参加して―被災地の医療・公衆衛生支援の必要について

東京大学教授・公衆衛生学 小林廉毅

 東日本大震災から2週間後の3月25日に被災地の一つである岩手県釜石市と大槌町に、AMDAの医療ボランティアチームの一員として入った。1週間、医療支援活動とともに同地区の避難所を見て回ることで、今後の医療・公衆衛生支援に係わる課題を3つ考えたので報告したい。

第1に、被災して避難所で生活する住民の健康問題である。ライフラインの不十分な避難所に多くの人が集住することで起きる健康障害は少なくない。インフルエンザや感染性胃腸炎(ノロウイルス)の発生、食事の偏りによる栄養欠乏症や便秘、身体活動の低下による血栓症や筋力低下、プライバシー確保の困難や震災後ストレスによる不眠・メンタルヘルス問題、そして高齢者の介護である。これらの問題は避難所の状況が様々であるため、避難所毎に対応は異なるし、なかには仮設住宅に入居しても解決しないものもある。いずれもすでに指摘されているものであるが、今回の大震災は規模がはるかに大きいため、組織的な取り組みが必要である。地元の医療従事者だけでは対応しきれないニーズを補うため、長期の医療・公衆衛生支援チーム、いわばPost-DMATの編成が必要と考える。Post-DMATは上記の課題に対応するため、多職種チームとなるだろう。

第2に、これから本格化する、がれき撤去作業に係わる地元住民やボランティアの健康問題である。がれきには津波による多量のヘドロが加わっている。撤去作業では、粉じんやそれに含まれるかもしれない有害物質への対処のため、作業に適したマスクと服装が必要である。また、釘刺し事故による破傷風対策を講じる必要もある。ボランティア団体の多くではそのような指導がなされていると聞くが、地元住民に対しては当該作業に係わる健康教育が改めて必要であろう。長期的な課題として、がれきの粉じんによる健康障害を解明するため、今回の大震災で先頭に立って活動する多数の自衛隊員などを対象にした疫学調査を早急に始めることが望まれる。

第3に、地域の医療システムの再建である。大槌町では、医師4人の県立大槌病院と5箇所の民間診療所がすべて被災して使用できなくなった。現在、避難所も含めて地域の医療は、上記医療機関の医療従事者と多くの医療支援チームによる救護所(避難所等に設けられた簡易診療所)や巡回診療で担われている。しかし、医療支援チームは徐々に撤退する一方、医療施設の再建には時間を要する。しかも、もともと医師人口比が全国平均の1/3に満たない医療過疎地域である。仮設住宅の設置計画に仮設診療所も含めること、必要な医療機器の貸与または給付、後方病院からの医師派遣、保険診療への復帰の道筋をつけることが重要である。医師派遣は地元の要請のもとに国が全国の医療機関に号令をかけるという強制力が必要であろう。保険診療への復帰は早期に行うべきで、それによって地域医療の再建につながる。患者の自己負担はすでに政府の方針により、ゼロとなることが決定している。

今回の未曽有の大災害でかけがえのない家族と家財を失った方々には心からお見舞いの気持ちを伝えたい。とりわけ子どもを亡くした親にはかける言葉がないが、子どもの魂はいつもあなたのそばにいると信じている。

米田 哲 医師 [大槌市・釜石市]

3月20日から岩手県での活動に参加した米田医師からの、27日帰着の電話報告から抜粋したものです。

大槌町は津波によって、沿岸部の病院、クリニックなどすべてが流され、医療機能はゼロに等しくなった。生き残った医師、看護師も被災し、避難所に避難しながら診療をしている。大槌高校避難所の医療は、震災直後から大槌病院スタッフが取り仕切っていた。当初の医薬品は大槌病院の薬剤師が独自のルートでAMDAにも手配してくれていた。2週間がたち、スタッフは震災後はじめて家族や友人を探したり、自分の家の様子を見に行くことになり25日から診療を止めた。4月15日までは大槌病院の事務職員も含めて医療活動休止の方向。それまで、大槌病院の管理下だった大槌高校の医療は、仕切る人がいなくなり、いろんな団体が短期間入ってきては慌ただしく帰っていくといった状況になってきた。現在2か所の医師会が入っており薬剤師が1人いるのでジェネリック薬品や薬の使い分けがうまくできるため、スムーズな診療ができている。が、どちらも29日か30日に引き上げ予定。AMDAは高岡医師が診療を続けている。

総社の電気自動車を使って巡回診療をしている。アイビームの使い心地は上々。半日使用して一晩(13時間)充電といった使用。元持調整員が紹介した地元民生員とともに、山奥へも巡回診療を行った。そこは50世帯ほどの場所で、ほとんどが高齢の老夫婦。病院に行けず、薬がなくなり、基礎疾患(持病)が放置状態。糖尿病の人がとんでもない血糖値をだしていたり、高血圧がひどくなっていた。ガソリンもなく、バスも来ないため避難所まで降りれず、支援を受けることができない状態だったので、巡回診療は3日から1週間おきに定期的に行っている。

【釜石市】17時から毎日行われる釜石市対策本部のミーティングには、AMDAは毎日必ず医師が参加しており、結構頼りにされているようだ。対策本部で医療ボランティアの振り分けがされる。

【大槌町】釜石市とは正反対に、大槌の対策本部は孤立無援状態。通信できず、たどり着くまでの道のりは瓦礫でいっぱい。対策本部といっても医療情報は全く入ってこない。町長がいなくなって、指揮官がいなくなってしまった。AMDA派遣チームの医師の間では、以下の考えが周知されている。大槌の医療を立ち直すにはかなり時間が必要。県立大槌病院が仮の場所で診療を開始するまでの間、AMDAなど、誰かが助けないとどうにもならない。地元の医療が復帰してきたら、介護が始まるだろう。

井関 ふみこ 調整員

派遣期間 3月29日〜4月9日 派遣場所 岩手県大槌町

業務報告 (抜粋)
現場の業務調整に従事(宿泊先は釜石ベース)
主な業務内容:東和チームとの調整、元持調整員のサポート(配車/ドライバー/宿/銭湯手配)、AMDA全体会議の開催、タイチームの対応、物品仕分け/運搬、トレーラーハウス(検査室)の整備、地元開業医からの情報収集、パワープレート、取材同行等

感想など
微力な調整しか出来ず、反省面も多々ありますが、多くの方々の募金/本部の支援のお陰で12日間の活動を終了することが出来ました。電気の再開・信号機の設置・道路の開通等、短い滞在期間にもかかわらず、毎日の様に状況が改善されていく様子には、感銘を受け、日本の底力を感じました。又、弓道場での活動を受け入れてくださった植田医師や、余震直後の夜中1時にガス業者が東和ホテルに駆けつける等、現地の方々のプロ意識には、頭が下がる思いで一杯です。一方、被災者の間では、不眠、疲れ、孤独、ストレス、うつ等が広がってきています。精神的サポートを心がけられている佐々木鍼灸師の支援も含め、緊急医療活動終了後も、大槌町の復興支援が継続されることを望みます。今回は、AMDAチームの一員として活動に参加し、素晴らしいメンバーとの出会いもありました。このような機会を頂きまして、感謝申し上げます。

小倉 健一郎 医師(AMDA兵庫県支部) [仙台市・石巻市]


右から小倉医師、指山医師、二瓶看護師
仙台の避難所で

3月11日、東北地方の地震・津波のニュースを見て、すぐAMDA兵庫県支部のメンバーに連絡を取り、明日から被災地に行けるという鈴記医師の車で現地へ向かうことにした。薬品も何も持たず、まずは先遣隊として視察したり、被災した病院支援に入るつもりだった。活動先を模索しながら進んだが、最終的にはすでに仙台に入っているAMDA本部チームと合流することにし、仙台の拠点に辿り着いたのは13日の夕方だった。

14日から仙台市役所、医師会、保健所に出向いて、AMDAとして主に宮城野区の避難所の巡回診療を行うことが決定された。このとき既に仙台では食糧やガソリンの不足に加え、原発の爆発による影響が危惧されるようになり、活動の継続性が危ぶまれる状況だった。

翌15日、最終的に3名の医師を仙台に残し、一部は岩手県に移動、その他のメンバーは撤収することになった。15日から指山医師と淵崎医師は拠点となっている「ひなたぼっこ」のNPO・CLC(全国コミュニティーライフサポートセンター)の看護師とともに巡回診療を開始した。私は新潟のマツキヨで風邪薬・解熱剤などの市販薬品、湿布、ホッカイロ、ガソリン、食料などを買い込んで16日に仙台へ戻った。

17日からは指山医師と私と二瓶看護師(CLC)の3人体制で、自ら車を運転し宮城野区の診療所を巡回した。14日の段階では各避難所の食料配給は乏しく医療チームも入っていなかったが、この頃から他の医療チームや地元の校医の巡回が増え、医療ニーズが低減したので18日は石巻市の避難所を巡回した。

石巻市の避難所にはまだ巡回診療が入っていなかった。19日、南三陸町の拠点避難所であるベイサイドアリーナを視察した。そこの救護所が混乱していたため、その場で診療に参加することになった。翌日もこの救護所で診療に加え、医療チームの巡回表や避難所マップ作成、救護所トイレや診察室の整備などを行った後、活動を他チームに引継ぎ、仙台に戻った。

紙面の都合で活動の詳細は書ききれないが、未曾有の津波災害で家屋を失った多数の被災者のケアが重要な時期に、最初に巡回診療を行い、現場から情報発信も行えたことで、後続の支援活動に役立てたと思う。

塚本 勝之 医師(公衆衛生)

2011年3月11目午後、東北および関東沖合いで発生したM8.9規模の巨大地震による大津波が発生し、主に岩手、宮城および福島で甚大な被害が発生しました。この被害に対しAMDAは宮城県仙台市の被害地区に対し医療支援の活動を決定し即時に活動を開始しました。この活動に対し自分は基本活動の設定のため仙台市青葉区・若林地区に2次隊として派遣されました。期間 2011年3月12日より2011年3月15日まで

自分は、大政調整員、松井医師、向井看護師と共に新潟の支援拠点を経由して現地に入りました。活動内容は以下の通りです。
1.支援活動拠点の決定
2.基本的な活動必要物資の搬送
3.活動内容の決定
4.基本的現地情報の把握
5.現地医療関係者およびボランティアとの協力体制の設立
6.活動内容の経時的評価および改善

支援活動拠点は仙台市青葉区「ひなたぼっこ(全国コミュニティライフサポートセンター、CLC経営)」となり、派道者宿泊施設も提供されることとなりました。この施設を拠点にAMDAは各活動を開始することになりました。

現地での活動支援拠点(東横イン、新潟駅前)で派道者生活必需品、基本支援物資を新潟市内にて調達しました。内容は数日分の派選者食料、寝具(寝袋)、ペンライト、乾電池、石油ストーブ(支援用)、米(支援用)などでした。被災地区の物資不足と支後者の食料および生活物資の調達のため、食料品、カセットコンロ、ガソリンなどが不足しつつある状況でした。調達できたこれらを1BOXカーにて現地支援者片桐氏および倉島運転手とともに、特別緊急車両の認定の元、福島経由の高速道路にて現地活動拠点まで搬送しました。その後は現地の変化する被災者の需要に対応するため、必要物資をピストン搬送とすることにしました。

今後にむけて
現在の緊急支援の重要点は、活動の現地関係者への引継ぎだと思います。NGOはいずれ被災地を離れることとなります。その間に現地の医療関係者にバトンタッチ出来るよう、早い内から現地医療関係者との連絡の取り合いが必要だと思います。

新潟 仙台に向けてのロジスティクス拠点

仙台市被災地での活動の後方支援として、3月12日から16日まで新潟にロジスティクス拠点を置き職員が駐在しました。災害時の連絡協定を結んでいる明るい社会づくり運動の新潟支部のご協力で、食糧、飲料水、燃料、寝袋など被災地では手に入らないものを調達し、また新潟空港がら仙台に向かう派遣者の搬送に、新潟−仙台間を毎日車両が行き来しました。また日赤新潟支部、新潟市社会福祉協議会のご協力もいただきました。新潟の皆様に感謝申し上げます。

 

高田 陽子 医師 [仙台市・釜石市]


被災した高田医師御実家

支援活動参加の経緯
今回の災害は、東北特に宮城、岩手の沿岸地域の被害状況があまりにひどく、私自身の家族、親戚がその状況下にあったことと、自分の生まれ育った町のため少しでも役に立ちたいという思いから参加を希望しました。職場の院長は自分の故郷のために行きたいという気持ちを最大限に汲んで快く送り出してくれました。出来ることは本当に少ないかもしれないけど、出身が東北の医師の自分にしか出来ないこともあると思い、たとえ充分な医療行為ができなくても行くべきだし、行きたいと思いました。

業務
3/14東京から新潟へ向かい、他の派遣者の方々と合流後、宮城県仙台市へ向かいました。到着が夜だったため、その日はミーティングのみで、次の日、仙台市宮城野区の避難所の巡回診療にあたりました。午後からは岩手県釜石市に向かい、遠野市で活動拠点を決め、3/16から釜石市釜石中学校避難所で泊り込み診療を行い、3/20までの5日間昼夜、釜石中学校・双葉小学校・釜石市民体育館・大槌弓道場などを巡回しました。

気付き・反省点
私は日常業務においても、老人医療や在宅往診などをやっているため今回に関しては、その経験を生かすことができたように思います。超急性期と違い、疲労やストレスなどによる内科的疾患や高齢者における慢性疾患の対処などがメインだったためですが、充分な薬もない状態でいかに患者さんを安心させ、治療を施すかを考えさせられました。充分な医療ができなくても、医師がいるというだけで安心感をあたえられることができることを知り、医師という仕事の責任や重大性を改めて思い知らされました。難しいとは思いますが、他の医療支援団体や地元の病院などともっと協力体制ができれば、もっと早い段階でより良い医療が提供できたように思いました。

次回参加される医師(或いは看護師)への提言
・現場の声を良く聞いて、今何が一番自分たちに求められているかを判断して行動することだと思います。それはその場所、その時期、その災害などでどんどん変化していくものだと思うので、敏感に感じ取って、柔軟に対応できる力が求められるでしょう。
・現地に行って、医療従事者として歓迎されたとしても現地の人たちにお世話をかけるのではあまり意味がないと思います。必要最小限の迷惑で、必要最大限の医療を提供できるように考えて行動するべきだと思います。

最後に
今回、突然の参加にもかかわらず快く活動に参加させていただいて本当に感謝しています。また自分がお役に立てることがあれば、喜んで参加させていただきたいと思います。本当にありがとうございました。

 


海外からのメッセージ

AMDA各国支部からのお見舞いメッセージを紹介します

「現在日本で起きている状況について大変心配しております。皆様の置かれている状況に思いを馳せ、共感と激励の気持ちを送りたいと思います。」 Dr.William Grut (アムダ・カナダ)

「震災で怪我をされた方々には早い回復をお祈り申し上げるとともに、大切な人を亡くされた方々には慈悲の心を捧げます。この困難の中、生き残った全ての方に、少しでも現在の状況が和らぎますように。また災害支援に携わる方々の弛まぬご尽力には敬服させられるばかりです。」 Dr.Mohammad Naim Rahimi (アムダ・アフガニスタン)

「私達アムダ・モンゴルの思いはこれからもアムダ本部とともにあります。僅かぱかりの寄付ですが、どうかお役立て下さい。」 Dr.0yunchimeg(アムダ・モンゴル)

「これまでの二十年間、私は災害救援おけるアムダの不屈の努力を見届けてきました。そして、日本の皆様の逆境に対する回復力には常々感心させられてきました。試練の時に傷ついた人々を全身全霊で救おうとする皆様の情熱に思いを馳せるとともに、被災された方々の心の平安をお祈り申し上げます。」 Dr.Pashupati Regmi(アムダ・ネパール)

「今回の震災は、災害の規模、犠牲者数ともに前代未聞と呼ぶほか言葉が見当たりません。被災者の方々の心痛を心よりお察し致します。」 Dr.Arbab(アムダ・スーダン)

「日本で大地震が起き、大変な事態に陥っていることをニュースで知りました。皆様の無事をお祈りしております。どうかご無事で。」 Modesto and Kumiko Cruz(2010年チリ地震時の協力者)

「アムダ・ザンビアを代表して、継続して被災者の救援に献身的に当たっておられるアムダチームの皆様に祈りを捧げます。アムダの卓越した慈善の精神には感化させられるばかりです。」 Dr.Jonathan(アムダ・ザンビア)

「今回の地震発生より毎日神様に手を合わせています。日本がこの状況を一刻も早く抜け出せますように。皆様の悲しみを分かち合い、どのような形にせよフィリピン国民全員が日本の復興を支援したいと願っています。」 Dr. vogie Alva(アムダ・フィリピン)

「恐ろしい地震で被災された方々をはじめ、日本にいるアムダファミリーの皆様にペルーの地よりお見舞い申し上げます。必要なものがあれば、どうか私達を頼って下さい。その間も私達は祈り続ける所存です。」 Dr.Augusto Ymanija(アムダ・ペルー)

「アムダ・アルバニアより、今回不運に見舞われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。このような震災が再び起きないよう願うとともに、皆が一丸となってこの状況に立ち向かうことができるようお祈りしております。」 アムダ・アルバニアー同

「今朝、日本で起きた恐ろしい地震および律彼のニュースを知り、大変心が痛みました。私達の心が日本の皆様とともにあることをお伝えするとともに、日頃より皆様が私達に助けの手を差し伸べて下さっているのと同じく、我々もできるだけ皆様のお力になれればと思っております.」 Foianini Family (アムダ・ボリビア)

「日本が直面しているこの困難に対し、深く同情致します。救援にあたっておられる医療関係者の方々におかれましては、忙しさを極めていることとお察し致します。事態が少しでも落ち着きを取り戻していくことを願っております。」 Dr.Milan Stojakovic(アムダ・ボスニア)