東日本大震災緊急医療支援活動(2011/4発行ジャーナル4月春号掲載) – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

東日本大震災緊急医療支援活動(2011/4発行ジャーナル4月春号掲載)

東日本大震災緊急医療支援活動

AMDAグループ代表 菅波 茂


3月16日の大槌町

AMDAの活動地

診療風景

2011年3月11日に東北および関東地方を襲った地震と津波に加えて福島原発の被害は世界を震撼させた。「日本は天から見放されたのか」と誰もが疑った。私はインド連邦ビハール州のブッダガヤにあるホテルの一室で第一報を聞いた。ブッダガヤは釈迦が悟りを開かれた地である。何故に私は日本にいないのか。阪神大震災の悪夢がよみがえった。嘆く暇があれば動け。被災者は何を求めているのか。何を必要としているのか。被災地で考えろ。岡山の本部に「すぐに先遣隊を被災地へ」の指示を出した。3月12日に先遣隊3人は車で宮城県仙台市青葉区、若林区に入った。私も13日にインドからバンコク空港、関西空港、伊丹空港経由で新潟空港に着き、車で仙台市青葉区に入った。AMDAの活動、即ち、「あなたを見放さない」そして「困った時はおたがいさま」のメッセージのもとに「命を救い、生活を支え、絆を深める」に集約され考えられるあらゆる活動である。

AMDAは宮城県仙台市宮城野地区と同県南三陸町、そして岩手県釜石市と大槌町で避難所での診療と巡回診療を実施した。1995年の阪神大震災の救援活動とは根本的に状況は異なっていた。即ち、地震被災と津波被災の違いだった。被災しながらも避難所診療を続ける地元の医師を支援する形式で、全国から熱意あふれる140名以上の医療スタッフを被災地に送り込んだ。

災害医療は救急救命に始まり避難所医療、地域医療(保険診療)、中核病院医療そして全体医療計画整備へと経時的に移行する。阪神大震災の時にも経験したことだが、一番困難なのが避難所医療から地域医療(保険医療)への移行である。阪神大震災では、全国から集まった若い医師たちの情熱が撤収を理解できなかった。今回は、地域医療を担うべき開業医の診療所が壊滅状況だったので、仮設診療所の提供など国の施策が不可欠だった。同じく壊滅状況下にあった県立病院のみを再建しても地域医療の回復は望めなかった。

海外では、数多くの風評が出回る中で、2つのことが注目されていた。福島原発の被害と避難所での暴動がないことだった。避難所には「格差なき信頼の秩序」があった。4週間にわたって秩序が維持されていたのは感動的だった。AMDAが海外の医療団体を積極的に受け入れたのには理由があった。本国に「格差なき信頼の秩序」を伝えてもらい、日本に対する「同情から尊敬へ」と意識を変えることだった。百聞は一見に如かずの格言の如くである。

「ピンチは最大のチャンス」とは「絆を深める」ことである。日本国民が日本の歴史上に残るこの大災害に「困った時はお互いさま」の相互扶助の精神で絆を深めることにより、起きると言われている東南海地震などに対して一致団結して対処することができると確信する。阪神大震災の地震被害に対する教訓と東日本大震災の津波被害に対する教訓を国民の智慧として後世に残すことは、両災害に災害医療救援活動として関わったAMDAの責務として考えたい。

AMDAは国内での災害である阪神大震災、新潟県中越地震そして中越沖地震に加えて、ここ数年だけでも四川省大地震、ミャンマーサイクロン、ハイチ大地震、チリ地震津波、パキスタン洪水、ニュージランド地震などの世界の災害に関与してきている。これらの災害の被災者の方々と東日本大震災の被災者の方々との絆を深めたい。この人と人との環が世界平和への道筋になれば、AMDAの提唱する「市民参加型人道支援外交」の実現として望外の喜びである。