フィリッピン台風被害緊急支援
厳冬の信州から熱帯雨林のフィリピンへ |
AMDA登録看護師 渡邊 美英
|
||
12月1日のテレビニュースで「フィリピンで大規模な台風被害が出た」事を告げていた。大雨により火山周辺の灰が泥流となり、いくつかの村に流れ込み家 屋が流されたり、村自体が埋まってしまった所もあるようだった。「大変そう!AMDAからメールが入るかも・・・」そんな予感をしながら、12月2日は通 常の勤務をこなしていた。ただ、その場にいたスタッフには「また行くかも・・・」とだけ伝えていた。それは昨年の7月に、自分はジャワ島の津波被害に医療 救援に参加させてもらっていたからだった。帰宅すると「第一次チームが派遣された」との情報がメールマガジンにて入っており、そして5日、やはり参加打診 のメールが入った!即日上司や同僚に勤務変更をお願いするも、皆、心良く承諾してくれ、申し訳なさと感謝でいっぱいの中、6日関西空港に向かった。「自分 にできる事をする」それだけの思いで・・・。
『巡回診療』 診療の流れは以下のように行った。
|
1階が埋まった家 |
|
巡回診療 |
||
子供の診療風景 |
||
現地の言葉が分からないAMDAの医療チームにとって、彼等学生は無くてはならない助けとなり、診察と処置に関しては4?5名の看護学生が通訳として側に付いてくれた。 今回の医療チームは国際色豊かで、フィリピン、インドネシア、ネパール、オーストラリア、日本と多国籍になり、加えて宗教もキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教と揃ったが、皆その違いを理解し楽しむ事さえできた。 |
巡回診療 |
|
『処置を担当して』 どの被災地でも300人?800人の患者が私達の巡回診療を待っていた為、医師達は診察に精一杯で処置をお願いする余裕はなく、看護師である自分がほと んど担当せざるを得なかった。電気が無い中では、診療は午後5時の日没までが限界だったからだ。 そんな中「日本では経験できないであろう事例」もいくつかあった。 記憶に残ったのは、12月15日である。ある医師から「この人の背中にたぶん『弾』がある。取り出して」と言われたが、始め『銃弾』を意味する 『bullet』が聞き間違いかと思い、近くにいたオーストラリアの調整員に確認をした。「ねー今、彼は『弾』って言った気がするのだけど・・・」「まさ か!そんなはずはないよ」と彼も確認してくれたが、やはり『銃弾』だった!「えー!銃の弾抜きなんてした事も、習った事も無いよー!」と心の中では叫んで いたが、この状況では、できる所までするしかなかった。 何故こんな事になったのか?「ストレス」が一因かもしれない状況だった。家や財産を失う中で「取った、取らない」「境界に入った、入らない」など、些細 な事で隣人とトラブルになるらしい。皆、心に余裕がなくなるのも当然なのだが、なんだか悲しい気持ちになった。いざ!恐る恐る背中のガーゼを取ると「本当 にあるよ?っ!」それはまるで、 お弁当に入れるウィンナーの「たこのハッチャン」みたいな形状で、頭だけ出して足が皮下に埋まっている感じだった。更に 負傷から1週間たっているため、周囲の組織は化膿していた。『弾』は何とか無事に取り出せ、手当ての仕方を説明し、ホッとして振り返ると、掛かった時間分 だけ処置の患者が並んでいた・・・。 |
|
|
『難民キャンプ』 被災地では各小学校が難民キャンプとなっていたが、環境は劣悪で1クラスに60人程が生活していた。換気も不十分で横になれるスペースなど無く、もちろんプライバシーなど全く無い。水も電気もない、この状況下で感染症の蔓延を誰もが心配した。 住民は回って来る「給水車」から水をもらい、校庭で洗濯をし、倒れた電柱や電線に洗濯物を干していた。行水を行う場所もなさそうだった。家を失い、家財道具一切を失い、家族まで失った彼等にこの環境はあまりにも過酷に思えた。 『宿舎』 2)明かり
|
||
『食事』 今回、国際色豊かな医療チームだった為、食事の時が何とも楽しく、また悩んだ時間だった。まず、イスラム教のインドネシアの医師は「豚肉」が食べられな い。次にヒンズー教のネパール人医師は、神聖な「牛」は食べられない。つまり、皆がそろって食べられるのは「鶏肉」と「魚」になるのだが、これが結構大変 だった。 フィリピンは基本的にカトリックの為、私達へのお礼で住民達が用意してくれた料理には「豚肉」も「牛肉」も入る事がある。目に明らかな場合は良いのだが、 食べ始めてから住民が「そう言えば入れたか?!」なんて話になると、医師達はもう大騒ぎになるのだ! 結局その時は、豚肉が入っていない事が証明されたのだが、それ以来、常にこの問題が私達食事の「最重要課題」になった。まあ、食べられるだけでも「良し」としなければ。 |
||
『活動を振り返って』 今回の活動では、若い看護師や看護学生達の助けが大きく、現地の言葉が何も分からない、AMDA医療チームの大きな力であったと思う。 薬を渡すにしても、私達だけでは、正確な飲み方の説明も出来ず、危険を招いたかもしれない。また、生活に即した指導も行えなかっただろう。 彼等は本当によく働いてくれ、また私達を明るくしてくれた。今回の活動が彼等にとっても、良い経験であり、学ぶ事も多く、これからの臨床に生かせるだろう! 被災地の早い復興と、病院、学校の再開を願うばかりだ。 『終わりに』 今回も、年末の特別勤務の時期に派遣させてくれた職場の上司、同僚に・・・また影で協力をしてくれた家族に・・・そして今回の派遣をいろいろな形で支えて下さった皆様に心から感謝します。ありがとうございました。 |
||
The Last Supper in Legaspi レガスピでの最後の晩餐 |
二ティアン・ヴィーラヴァグ調整員(前AMDAスリランカ医療和平事業副統括)
翻訳ボランティア 藤井 倭文子 |
||
今回フイリピンでの私の任務は、前回のスリランカに於ける任務とは異なり、短期間の緊急救援活動である。活動拠点は2006年11月30日にフイリピン 台風21号で被害を受けたバイカル地方の中心部に位置するアルバイ州のレガスピ市である。私が出会った人々の話しによると、時速240キロに及ぶ恐ろしい 強風と豪雨を伴う台風は7-8時間も続いたという。当初、この台風は大型勢力で接近すると警告されていたのだが、その後、気象庁はその勢力を下方修正して しまった。そして、実際に台風がこの地域を直撃した時は当初警告されたとおりの規模であったのだ。その日住民が予期しなかった出来事はこれだけではなかっ た。すさまじい台風に加えて、住民はこの小さな静かな村でさらに何が起ころうとしているのか全く想像もつかないことだった。住民の中には翌朝全国ニュース を見たり聞いたりするまで、何が起きたかを知らない人もいた。しばらく活発化していた雄大なマヨン山から勢い良く溶岩が流出しはじめたのだった。
火山がれきは、雨により山を洗い流しながら物凄い勢いで下降し、その途中全てのものを壊滅した。被害地の大部分は黒 い砂漠のようで、我々はその日何が起こったか想像する他ない。集落や豊かな野菜畑のあった場所は巨大な岩石や黒い砂で覆われている。強風により大被害を受 けながらも、多少残っているココナツの木の状態から見てもその風の勢いが推測できる。ここに来て、台風の直撃を受ける前の状態を想像する事はできなかっ た。被害を受けた地域の一部は真っ黒でまるで火星の表面のように見える。 最も被害の大きかった地域はギナバタン、セントドミンゴ、バカカイ、及びカム リンで、火山がれきは居住者もろともに多くの家屋を葬り去った。火山の噴火は予期されていなかったために、家族や友人は後に遭遇する運命を知る由もなく、 家の中に皆で避難していた。政府筋によると千人以上の住民が命を落とし、いまだに数多くの行方不明者がいる。いろいろ事前に話しを聞いてから被災地を訪れ た私には、はるかかなたに、静かに死を遂げた人や悲鳴、泣き声が聞こえるように思えた。 アルバイ州で日が経 つにつれクリスマスの陽気な季節も近づき、フイリピンの人々の決意と気力を目の当たりにしとても驚いくこととなった。ちょうど田植えの時期であり、まるで 何事もなかったかのように米を植えている人々を見かけたのである。稲田の所々は火山がれきや大きな岩で覆われていたが、村人はそのような場所は避け、耕作 出来る所を見つけ作業を続けていた。なんと前向きな希望に満ちた人々であろう!だが、実際に彼等に対面し、その顔をよく見ると笑顔で歓迎してくれた顔の奥 には一抹の悲しみが見て取れた。 |
石と人 |
|
|
||
掘り起こす人々 |
||
政府はアルバイの人々にクリスマスに間に合うように電力を復旧させる事を約束していた。それが政府による災害の過小評価だったのか、自信過剰による発言 だったのか私には定かではない。特に電気関係の作業員はマニラやその他の地域から来なければならず、休暇のシーズンと重なることは言うまでも無く、何しろ クリスチャンの国なので被害の激しさから判断するとクリスマス前に電力を復旧する事は不可能に見えた。しかし多くの人々が大変驚いた事に一部の主要都市で は電力が復旧されていた。 マニラに家族がいる人や余裕のある人々は、マニラや他の主要都市へ行き、家族や友人、愛する人達とクリスマスを祝い、被災地域の殆どの家族は親族が集ま り静かに過ごした。私もアルバイで二つの集まりに招待された。 その一つは医師の家での集まりで、プレゼントや沢山のファーストフード、酒、ソフトドリンク、裕福に着飾った礼儀正しいティーンエージャーたちと音楽、そ して賑やかな家族同様な仲間達がいた。このティーンエージャーの大部分は医学生や看護学生で、この災害の無残さに大きなショックを受け悲しんでいた。 もう一つの招待は私達の運転手の家族の集いで、運転手である父親と教師をしている母親とこどもというフィリピンの平均的な家族の集まりだった。とても恥 ずかしがりやで礼儀正しい3人のティーンエイジャーの子供達とフィリピンのどこの家庭でもいつも尊敬されているおじいさんとおばあさん、二人の叔父さんと その子供達が集っていた。彼の家族は、地元の美しいスペイン風設計の教会の深夜ミサへ一緒に行こうと招いてくれた。行ってみるとその教会はクリスマスのミ サに敬けんに耳をかたむけている人々でいっぱいだった。そこに集まった人々の表情や、その場の雰囲気には何か特別なものがあった。クリスマスを祝うためと いうより、命を落とした愛する人々のために祈りを捧げるためにそこにいるということは明らかで、教会の中でも外でも人々の顔には悲しみや落胆の色が表れて いた。同じ町で昼間見た人達の表情とは全く異なっていた。彼等の表情は「なぜ」「どうして」と訊ねているように見受けられ、神に答えを求め不満を訴えるた めに来ているように思えた。このような悲痛な面持ちの人達と一緒にいても、遠くからは爆竹を鳴らす音や打ち上げ花火がみえた。そしてミサが終わった時に は、ほとんどの人々が安堵による大きなため息をもらしていた。そしてそれぞれ自分の周りに立っている人と挨拶や祈りの言葉をかわしている間に、彼等の顔に 少しずつ笑顔や幸せそうな様子が戻ってきた。そして2-3分前には全く静寂で悲しみに溢れていた同じ場所が、突然賑やかになり、多くの嬉しい笑顔に変わっ たのだ。 彼等はすごい人々だと思う。私は彼等についてうまく言葉では表現できない。貧しいけれど心は非常に豊かである。誰がトラウマへの対処法を教えたのか?ほ とんどの人々は今迄の人生で心理学者にさえ会った事があるとは思えない。このような悲劇やトラウマをどのようにして乗り越えたのか?島のこの地域では台風 や火山の噴火は当たり前の事で災害には慣れているからか?それとも神に対する彼等の信仰心がその心をより強くしているのか? |
マニラで |
|
こんな事を考えながら私は彼の家族と一緒に家へ戻り、そして夕食をご馳走になった。そこには手作りの美味しい食事と飲み物があった。彼らと一緒にいて私は ずっとくつろいだ気持ちになっていた。この家族にはほんの2-3時間前に会ったばかりなのに、心から私を歓迎してくれている。そう思うと不思議な気持ちに なった。そして帰り際、こんなに素晴らしい人達に今度いつ会えるのかと思うと悲しみがこみ上げてきた。神のみが知っている。私にとってこの夕食がとても素 晴らしい家族とのレガスピでの最後の晩餐となった。私はとても沈んだ心で彼等に別れを告げた。このクリスマスの経験は私にとって全く比類の無いもので、生 涯忘れる事はないと思う。
翌日私はマニラへ移動した。クリスマスは終わったものの、マニラにはまだ祝賀気分が残っていて全く別の新しい世界のようで、通りには街灯や飾りつけもあり、ダンスやカラオケ、眠らぬ夜の街があった。 |
||