アフガン難民支援活動の終了によせて
AMDA本部職員 小西 司
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2002 年1月、冬の日没を忘れることができない。厳寒の沙漠で、周辺地域ではすでに凍死者も出ていた。夜には気温零下になるラティファバードキャンプに難民の受 入れがはじまり、AMDAの仮設医療テントがようやく立ち上がった頃、キャンプにはすでに臨月の女性が5人居た。 ある日の16時ごろ、早い夕暮れの迫る中、陣痛に苦しむ四十代の妊婦は体力を消耗し、自力で産み出せない。キャンプの住居テントは数日前に建てたばかり で何も無く、治安状況から日没後の女性医療職のキャンプ滞在はまだ認められなかった。しかし、仮に市内の病 院へ救急搬送した場合、1時間30分の悪路を移送中に、沙漠の夜道で出産という最悪の事態も考えられた。ここでとりあげるしかない。工藤ちひろ医療調整員 とアフガン人助産師ファリバが臨時の産室となった砂まみれのテントに入り、てきぱきと指図を始める。ろうそくの光が頼りの小さなテントで、すでに岩山に日 がかげる17時過ぎ、「無事、産まれました」工藤MCとともに無事とりあげたファリバの、安堵と疲労しきった表情は未だに目に焼き付いている。 キャンプ初の産声に、その場に居合わせたUNHCR職員も胸を撫で下ろし、それまで支援見合わせの状態が続いていた他の国連機関からも、協力を得られる ことになった。この後、ラティファバードはベビーブームを迎え、AMDAは仮設診療所での出産前後の支援システムづくりに追われることになる。新しい生命 にかかわることは、きびしい冬の緊張と波乱の多い仕事の中で、せめてもの小さな喜びであった。 開設後1ヶ月も経つと、キャンプ内には生活感が満ちてくる。言うなれば数万人の住宅地がわずか数週間で形成される。ただ、そこでの暮らしは消費生活であり、生産活動はほとんどなされない。それでも市場ができ、肉屋が開き、結婚式があり、刑事事件すら起こ る。暮らしが、土地に根ざしてくる。 難民事業の最終的な評価は「故国への安全な帰還」だろう。しかし、難民の帰還が早く進んだキャンプでは、結果的に難民=受益者数の減少、それによる予算縮 小と受入国であるパキスタン人スタッフの解雇が早まるという事態が進んだ。しかも、帰還の進んだ後には、夢は何も残らない。受益者=難民の喜ぶ顔は、国境 の彼方である。いずれ歳月を共ににした建物は取り壊され、難民キャンプは更地か、ゴーストタウンになる。 |
開発プロジェクトであれば、たとえば建物ができること、教育が普及すること、貧困が削減されることなど、活動の評価と、受益者の参加、地域住民の成果や拡大と持続性に大きな矛盾はなく、評価を共感することができる。しかし難民支援事業では、これらが概ね一 致しない。 隣人として「何のための支援・協力か」という問いを、自己の中で常に整理・反芻しつづけなければならなかった受入国住民・参加職員の協力と忍耐に、遠く に暮らすものとして感謝している。また、不満から時に反発し合う「民族」、しかしそうした隣人どうしの反 目をなくし、目指す理想を一致させるよう、根気強く対話を続けてくださった各リーダー=派遣調整員・医療調整員皆さんの心的負担と努力に、そして支援しつ づけてくださった方々に感謝している。 2003年頃より、それまで特定の新難民キャンプでの直接診療活動から、帰還難民への医療支援に加えて段階的に旧難民キャンプへと活動範囲が拡大された。これは帰還事業が促進される一方で、帰還することが困難な難民や旧在の難民キャンプ住民が残される形となっ たため、AMDAの活動もこうした人たちへの支援に広がったといえる。 「紛争解決」、という言葉には矛盾が含まれている。当事者にとっては、紛争は解決の手段なのであって、他の選択肢がないか、あるいはそれが一番てっとり早 い故に紛争を起こしているのだから。私たちが第三者として関わる場合、選択肢は二つ。武力を有する者で あれば力を誇示して紛争を止めさせる。しかし、AMDAのような、それをもたない民間団体は、紛争当事者の陰に居る、実は多数の、紛争による成果と無関係 (あるいは被害者)の人々を見出し、彼らを支援しつつ、そしてその立場によりそってメッセージを発信し続けるよう努力するしかない。 |
アフガン難民:サラナン・キャンプで思ったこと |
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)クエッタ事務所長 浅羽俊一郎
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炎天下、青年たちが案内してくれたサッカーグランドは、キャンプ中心から四輪駆動に揺られること数分、難民住居を囲む高い土塀と土塀の間の泥道を走りぬけ たところにあった。それはキャンプ地の裏に当たり、その先は見渡す限りただ一本の樹木も植わっていない荒地がひろがっていた。昨年8月、ここサラナン・ キャンプを訪れたのは、スポーツ用品メーカーのナイキが世界各地の難民児童に寄贈しているサッカーボールがこのキャンプにも分けてもらえることになり、そ の贈呈式をこのサッカーグランドで執り行うためであった。 地元職員二人、コミュニティー開発担当の国連ボランティアと学生インターン、合わせて四人の女性スタッフとともにクエッタ市から車で走ること一時間半。 サラナン・キャンプに到着し、待ち合わせ場所の小学校に行くと、出迎えてくれた顔なじみの青年たち数人が、サッカーグランドに行く前に話し合いに参加して もらいたいという。彼らの後について教室のひとつに入っていくと、彼らの仲間のほかに、長老たちが壁に沿ってロの字型に座っていた。合わせて25人くらい いただろうか。何のことかと思ったら、この機にサッカーチームを結成したい自分たち青年グループと、それを許可しないと意地を張っている長老たちの仲裁に 入ってもらうのがねらいだった。話し合いは穏やかに進められたが、なかなか折り合いが付かず、結局青年グループが長老たちへの説得をこれからも続けるとい うことでひとまず会はお開きになった。 どこにでもありそうな若者と大人たちとの意見のぶつかり合いではあるが、偶然とはいえ、キャンプで目の当たりにしたことは爽やかな驚きだった。また、こ の男どもの話し合いのまっ只中に四人のわが女性スタッフが当たり前のように同席し、通訳したり意見を述べていたが、後から思えば決して当たり前なことでは なかった。長老たちも長いつき合いの中で国連やNGOの女性たちを別格扱いしていたのかもしれない。とにかく私たちは長老たちを残し、青年たちと連れ立っ てサッカーグランドに向かったというわけだ。 昨年一年、出来るだけ多くのキャンプで、時間をかけてじっくりと難民たちと話すように心がけてきた。目的は二つあっ た。ひとつは難民の生活をより近くで見ること。もうひとつはUNHCRの活動規模・予算の縮小に備えて、彼らの自助努力を促すこと。本国への難民の帰還が 進むなかで、主なドナー国は資金援助をアフガニスタン側に移し始めており、今までのような自助努力の奨励程度では間に合わない(註1)。しかしキャンプを 頻繁に訪ねることは難しく、行ったときには2−3時間同じ連中と過ごすように心がけた。形ばかりの意見交換では決して本気で話しを聞いてもらえないと思っ たからだ。 |
サラナン・キャンプ にて 筆者(右端) 写真提供:UNHCRクエッタ事業所 |
では、UNHCRのパートナーであるNGOグループはこの方針の変化にどう対応したか。彼らとの話し合いも最初は難航した。こちらが難民の自助努力促進に 活動を切り替えようと提案しても、当初は理屈では分かっても、まず予算縮小に抵抗し、次に単なる活動の縮小を逆提案してきた。でも、さすがにベテランの NGOグループ。いまや積極的に様々な方法で難民たちに働きかけている。 2001年の9.11同時多発テロと続くタリバン政権の崩壊後、大規模な本国帰還に合わせていくつものNGOが国境の両側で活動を進めていたが、今では その数もかなり減ってしまった。覚えておきたいことは、NGOが単に救援活動の担い手だというだけでなく、実に難民たちと彼らを支援する各国市民のパイプ の役割を果たしていることだ。彼らが現場を撤退するということは、即ちパイプ役が減ることを意味する。その点で、私たちと5年間ともに活動したAMDAク エッタ事務所が昨年末活動を終了したことで、またひとつアフガン難民と日本の支援者たちをつなぐパイプがなくなってしまった。残念だとしか言いようがな い。今までの協力と実績に心から感謝しつつ、いずれ戻ってくることを期待したい。 ところで、難民問題に関わっていると多くのことを学ぶ。それは難民問題が国際社会にかかわるマクロの問題から、個々 の難民の生活や安全に関わるミクロの問題までを網羅せざるを得ないからだ。それもここ10年の間に問題の範囲がさらに拡大したことを痛感する。ジュネーブ 本部から回ってくる様々な資料の内容は、実に多岐に渡る。大きいテーマでは例えば紛争解決・国内避難民・人口移動・国連人道機関の連携・安全対策・人道的 介入など。新しいテーマでは環境問題・ジェンダー・HIV-AIDSなどがある。このようにUNHCRが多方面に手を広げるのとは逆に、今までUNHCR の独壇場だった難民問題に様々な団体や機関がそれぞれの立場から関わろうとしている。グローバル化の渦中、難民保護・援助も従来の枠組みではもはや解決で きなくなってきているのだ。 サラナン難民キャンプのサッカーグランドは、青年たちが自ら作った。いたって粗末なものだったが、そんなことはどうでも良かった。見晴るかすアフガニスタ ンの山々を背景に、若者や子供たちが裸足でのびのびとボールを追って走り回ったり、戯れたりしている姿を見ていると、暑さも忘れてほのぼのとした気持ちに なった。 (註 1) 近年国際社会からの資金援助の重心がアフガン国内に移り、また、他により緊急援助を必要とする国があるため、パキスタンの難民キャンプ事業が財政的 に逼迫し、UNHCRとパキスタン政府は従来からの援助政策の見直しを余儀なくされた。その結果、現在三つの大きな政策を推進している。一つはアフガン帰 還と定着促進のための自主帰還支援内容の改善。そのためには当然アフガン側に彼らをひき寄せる条件(家族の安全・安定した収入の確保等)の整備が必要であ る。第二点としてキャンプへの援助を、物資・サービスの提供から自助努力促進に変更しつつも、それによって受け入れ地域住民への負担が増えないような施策 を実施する。各国政府のパ政府との二国間開発援助計画の中にキャンプ周辺地域の環境保全・復旧、難民と地域住民の共存のためのプログラムを取り込んでもら おう、という考えだ。そして、三つ目がアフガン人の長期滞在者を把握するために個別登録をパキスタン全国に亘って進め、登録難民には2009年までの滞在 を許可し、その時点でその後の方針を見直す、というもの。どれ一つとっても簡単な仕事ではないが、個別登録については登録対象者240万人のうち216万 人が登録を済ませた。パ政府にとってまさに快挙だったといえる。 |
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アフガン難民支援医療保健活動を振り返って |
元AMDAクエッタ事務所・医療調整員/医療アドバイザー 原口珠代
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はじめに 2006年10月、2001年1月から始まったパキスタン事業に、結核対策事業統括の引継ぎという、一つのピリオドがうたれた。私が、最初にパキスタン 事業に従事したのは、2002年3月、大量のアフガン難民がパキスタンに流入してくる真っ只中だった。それから2004年、2005年、2006年と、こ の事業の閉鎖までの大きく変化し続けた流れに関わることができた。そこで、主な4つの保健医療事業について述べようと思う。 1 キャンプでのプライマリーヘルスケア事業 |
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2001年12月、UNHCRにより、新規(*1)にアフガン難民キャンプが次々と設立され、2002年1月、アムダは、1つの新規難民キャンプ全体の保 健医療担当団体となった。パキスタン人とアフガン人による混合医療チームが結成され、キャンプにはテントを使って簡易診療所を設置。アムダ事務所とその難 民キャンプまでは、車で片道1時間半。それから365日休日なしのキャンプ通いが、キャンプ閉鎖まで約2年8ヶ月続いたのだった。 1つのキャンプ全体の保健医療担当、それは一つの国家(難民キャンプ)の保健省(厚生省)の役割を担うと思っていただいたらよいかと思う。簡易診療所 (診療と治療)の役目だけではない。予防接種の促進、母子保健の指導、病気の予防教育啓蒙、感染症(マラリア・結核・HIV/AIDS・その他コレラな ど)の対策等はもちろんのこと、保健統計や難民衛生の動向の報告、出生登録証明の事務処理まで関わることになる。保健医療で問題が起こると、伝達・報告は アムダにされ、私達は責任を持って対策に応じていかなければならないのだ。 2003年には、さらに2つの難民キャンプを請け負うことになり、アムダは、ここで計3つの保健省役を務めたことになる。 最初に、何より苦労したのは、女性スタッフ、特に女性医師の確保だった。パキスタン、アフガニスタンはイスラム国家である。イスラムでは、女性は常に守 られなければならない存在であって、会社に入って働くことさえ家族に許してもらえない場合が多い。ましてや、町から一時間半かかる難民キャンプで、毎日仕 事をするとなると、さらに厳しくなる。 |
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し かし、文化・宗教的に女性患者は、女性医師に診てもらうのが基本となっているイスラム圏では、どうしても女性医師の存在は欠かせなかった。アムダは、何よ りも女性医師確保を優先し、女性医師を初期から雇用、診療所を運営した時には、他の支援団体、UNHCRから高く評価を受けることとなった。 初めの頃はテントのため、真夏には47度にもなった。ある時は、嫌がらせでテントに火をつけられたこともあった。薬欲しさに来る日も来る日も病人のふり をしてくる難民を、心で舌打ちしつつ、笑顔で諭した忍耐の日々。それでも、がんばろうと思わせてくれたのは、アムダ現地スタッフの協力して働く姿と難民達 の私達を受け入れてくれる素朴な姿だった。 2004年8月、自主帰還促進事業が開始され、新規キャンプも整理統合されることになり、難民達は大きな不安と期待を抱えつつ、アフガニスタンへ向かいはじめた。このため、アムダの年中無休だった診療所も同時に終了した。 (*1)パキスタンには、ソ連侵攻時代に逃げてきた難民が暮らす旧アフガン難民キャンプがある。 |
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2 リフェーラルシステム事業 | |
リフェーラルシステムとは、一体何だろう。普通風邪をひくと、近くの医院やクリニックに行くかと思う。風邪を引いた、さぁ大学病院に行こうとはまず思わな いであろう。公共医療機関には、病気の重症度に合わせた機能を有することで役割分担があり、緊急・高度医療にスムーズに対応するためのシステムがある。 パキスタンの公共医療機関では、簡易診療所、郡病院、州病院というリフェーラルシステムがある。簡易診療所で診断・治療ができない患者は、郡病院に照会され、そこでできなければ、州病院に行くというしくみだ。 難民キャンプでは、一つのキャンプに対し一つの支援団体(NGO等)が保健医療全体の担当を受け持っている。難民キャンプ内の診療所で対応できない重症 患者が発生した場合、担当団体は各自それぞれの責任で郡病院または州病院に搬送しなければならない。しかし、それぞれの団体により搬送する基準、病院の選 定もバラバラで、病院側の人材不足により搬送された患者まで目が届かないという事態を招くことが多々ある。 当初、新規難民キャンプでも、同じ問題が起こっており、毎週行われる全体保健医療会議の議題の主役となっていた。そこで、業を煮やしたUNHCRは、 もっと人材や資金を効率よく且つ適切に実施されるために、アムダにバロチスタン州内全新規難民キャンプのリフェーラルシステムの統括を委託した。それぞれ 距離的にも離れた難民キャンプで、また異なる団体をまとめ、一つのシステムを築くのは容易なことではない。ある意味、アムダにとっても大きなチャレンジで あった。 UNHCRの保健担当とまず搬送されるべき患者の基準選定やシステムの構想案をまとめる。そして、その案を元に各キャンプの保健医療を担当している団体 と何度も何度も納得するまで検討する。しかし、納得してもいざ実践すると、基準外の患者が送られてくる。なぜかと聞くと、患者に自分を州病院に診せなけれ ば痛い目にあわすと脅されたとキャンプで働く現地医師に泣きつかれたこともあった。 |
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このような統括事業は、迂闊にそれぞれのキャンプの医師達に直接な指導や手は出せないところが難しい。彼らは、それぞれ他の保健医療団体に雇用されたス タッフであり、アムダが他団体の医療活動を干渉していると取られる可能性もある。常に、その管轄の保健医療団体の代表を通し、我慢強く説明し、理解しても らうことが大きな鍵であった。この事業は、UNHCRから高い評価を受け、2004年9月、新規難民キャンプの閉鎖と共に終了した。さらに、この経験を活 かし、アムダは20年以上続いている旧アフガン難民キャンプを対象にこの事業を継続し、アフガン難民の自主帰還の進行に伴い、2006年3月、リフェーラ ルシステム事業を終了することとなった。ここで、大きな課題となったのは、簡易診療所と州病院の中間地点として核となる郡病院の設備・機能の不十分なこと であった。保健行政システムレベルの支援と草の根レベルの支援が絡み合ってこそ、支援の継続性が生まれることを痛感させられた事業でもあった。 | |
3 結核対策事業 | |
2003 年8月、アムダはUNHCRより、全新規難民キャンプの結核プログラム(予防と治療を含めた)の統括の委託を受けることになった。リフェーラルシステムに 続いて、また難しい事業を引き受けることになった。アムダの支援活動に対する高い信頼の賜物とはいえ、悪いくじを引いた気分だった。 簡単に述べると、難民キャンプで各保健医療団体が結核プログラムをきちんと実施するための監督役である。結核プログラムのためのスタッフ技術養成および 指導、全キャンプの結核治療薬の在庫管理、専門家による定期的なモニタリングとフォローアップ、結核データーの整理・報告・フィードバックが主な活動内容 となる。 結核は、一人患者がいると、一年で一人から十人へ感染させてしまうと言われている。世界的にも重要課題として対策がとられている。それだけに、結核プロ グラムの成果や結果に対する外部の評価はとても厳しい。難民キャンプでの状況が悪ければ、当のプログラム実施者ではなく、監督役であるアムダの責務が問わ れるのである。難民キャンプ内の保健医療事業は、プライマリーヘルスケア事業で述べたとおり、結核プログラム以外にも様々なプログラムを実施しなくてはな らない。 |
そ の中で、結核はどうしても優先順位が低くなってしまうのだ。これも、ひたすら足を運び、アメとムチを使い、各保健医療団体に説明、重要性を理解してもら い、やる気を出してもらうしかないのだ。結核対策プログラムは、何と言っても発見率と治癒率が大きな鍵となる。それには、診療所スタッフの地道なフィール ド活動というかなりの労力が必要となる。ただでさえ、無関心で、仕事をしないよう努力している他団体の現地スタッフにやる気と活動を促すことは容易なこと ではない。ひたすら忍耐である。 2006年11月、アムダは結核プログラム統括を終了することとなった。プログラムをそれぞれの保健医療団体に引き継ぐことになったのだが、最終決定が なかなか決まらず、終了までのスケジュールが詰まってしまった。2003年から監督役をしていたためか、各団体のアムダに対する依存性が大きくなってお り、受け入れ準備(意識も含め)に時間を要した。先を見据えた援助に対する関わりのあり方にも課題を残した。 |
4 自主帰還難民センター医療支援事業 | |
2004 年より、難民の自主的な帰還を促進する活動が開始された。難民のチェックポイントとなる自主帰還難民センター(以下、VRC)に、アムダは2004年の3 月から医療チームを派遣し、帰還難民の健康管理を行うことになった。帰還難民は、新規難民ばかりではない。20年以上もパキスタンに住んでいた旧難民も、 自主帰還を推進されバスで一晩かけてVRCへやってくる。彼らは、ここで帰還難民という登録をされ、アイリスチェック(虹彩登録)を受ける。人間の瞳は、 指紋と全く同様でみんな人それぞれ異なっている。つまり、個人識別判定として使えるのだ。この自主帰還に伴い、UNHCRでは帰還のための資金・物資援助 を行っているため、難民によってはこの資金欲しさに舞い戻ってきては、帰還難民を装う場合があるのだ。それを、防止するのが目的だ。 登録の順番を待っている間に、旅の途中で体調を崩した難民達が、アムダが開設している診療所にやってくる。特に、多いのが女性の車酔いである。車に乗った経験がない女性は多く、この長旅でかなり衰弱してしまうのである。 |
最初は、診療目的で活動していたのだが、下痢や脱水症状でやってくる難民に対応している医療チームから、彼らには保健啓蒙が必要だ、どうかVRCで保健教 育をやらせて欲しいという提案があがってきた。彼らが戻るアフガニスタンは、復興支援の段階で、保健医療システムは不十分であることは言うまでもない。そ んな彼らに、少しでも自分達自身で健康を守る手段を教えてあげるべきだという意見に、私達も、さらにVRCを統括するUNHCRも同意し、2005年中期 からそのための予算と人材が加えられた。現場を知っている現地スタッフから出た案件だった。現地スタッフの成長を垣間見ることができた瞬間は、人材育成を 心がけてきた私達にとってもうれしい限りであった。 |
最後に | |
2006 年5月、私は、たまたまアムダの最初に受け持った新規難民キャンプ跡地に行く機会があった。小さいマーケットや8,000〜9,000人と難民がひしめき 合っていた場所は、うそのように人影もなく、ロバと野犬がどこからともなく姿を現しては消えていった。でも、想い出と活動を通していろんな人から教えても らったものは、経験として私の中にしっかり刻みこまれている。失敗は次の予防に、成果はさらに次に活かして、人間としてできることをやりたいと思う。 | |
そのときのクエッタ |
元AMDAクェッタ事務所医療調整員 工藤ちひろ
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私が看護師/医療調整員として、参加させていただいたのは活動初期の2001年 12月から2002 年2 月、2003年 1月から 10月です。約5年にわたるプロジェクトを感慨深く思い返すととともに、この活動への参加の機会を与えてくださったことに改めて感謝しております。 | |
<難民キャンプができるまで> | |
2001年 9月 11日、東京の病院から仕事を終えて自宅にもどり、テレビをつけるとツインタワーから煙がでていました。 よくわからないながらも何か大変なことが起きていて、これからもっと大変なことになるにちがいないという不安感、助けを求めている人たちに自分は何もできないんだという無力感を覚えています。 だからその3ヵ月後にAMDAから、パキスタン派遣の医療職募集がきたとき、できることは何でもやってみようと思ったのでした。 そして2001年12月なかば、私がクエッタに到着するとパキスタンはラマダンの最中、初代調整員の谷合さんは飄々と昼食抜きで走り回っていました。私 もくっついて市内の病院の視察へ。AMDAの活動もクエッタ市内のジャムエシャーファ病院を拠点にした支援活動から、今後どう展開していくか模索している 段階でした。しかしその後すぐに、続々と集まってくるアフガニスタン難民に対して、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が難民キャンプを作ることを決 め、そしてAMDAもその活動の一翼を担うことになりました。 クエッタ市街から、道だか平地だかわからないところを車で走ること2時間、廃墟のような家の残骸と井戸がある場所に辿りつきます。最初、ここに数万人の人 が移り住むと聞いたときは半信半疑でした。こんななにもない場所で本当に生活していけるのか、と思ったのです。 難民キャンプ設置にあたり、AMDAに任されたのは、登録と検診、子供たちの栄養状態測定、麻疹の予防接種です。物資の配給やトイレの設置などは他の組 織が担当します。他の組織と連携しながら、数日のうちにスタッフを集め、車を手配し、準備を整えなければなりません。事業統括の小西さんも日本から駆けつ けてくれ、なんとか期日に間に合わせることができました。 |
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そして、なんにもない場所に次々と物資が運び込まれ、難民を乗せた大型バス、彼らの家財と家畜(ヤギがトラックの天辺で風をきって到着!)を乗せた大型トラックが到着し、わずか数日で辺りの風景は一変しました。 数万の人の移動というのはそれだけでも大変で、けしてスムーズに行われたわけではありません。私たちの受け入れ作業は単純なのですが、毎日なんらかのト ラブルが起こります。到着するはずの難民さんが来なくて待ちぼうけを食わされたことも、逆に大慌てで仕事をしなければならないこともありました。到着が遅 れた人たちのために、灯りもなく暗くなる中、皆で必死に目を凝らしてワクチンを打ったり、注射ぎらいで逃げ出す子供を追いかけて走って行ったり、まだ全て において不慣れで混乱もあった中、現地スタッフがとにかく頑張ってくれました。 |
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<最初の出産> | |
そもそも、ラティファバド難民キャンプはその立地条件(病院のあるクエッタまで約2時間)から、妊婦と病人は市内で保護することになっていました。しかし 考えてみれば大家族でまとまって避難している人達に妊婦だけ町に残してくる、というのは無理な注文で、想定外の出産が連日のように準備のない私たち医療 チームにふりかかってきました。 最初の出産は診療所のテントから歩いて5分のご近所さんです。朝から陣痛が始まりましたが、なかなか出てこない。チームは安全のためにも暗くなる前に町に帰らなくてはいけないのに、赤ちゃんはこちらの希望にはあわせてくれません。 日もすっかり暮れて、異常分娩なのでは、と心配になって来たころ、やっとでてきてくれました。かわいい小さな女の子です。 |
帰路は暗い中、スタッフも疲れたでしょうが、赤ちゃん誕生を笑顔で喜んでくれました。あの子ももう5歳になっているはずです。難民キャンプで皆に祝福されて産まれてきたことをいつかお母さんから聞くかもしれません。
難民キャンプは暑すぎるか寒すぎるかどちらかで、周囲は岩と砂だけ、どこからみても過酷な環境なのですが、不思議と暗いイメージがないのです。 |
<難民キャンプ生活の影> | |
キャンプの生活では制約も多く、仕事も見つからない先の見えない中、麻薬に手を出してしまう青年がいてもおかしくはありません。 「なんとかして欲しい」という相談を受けて出向いてみると、鎖で縛られて父親に説教されている20歳台の青年がいました。禁断症状で暴れて手がつけられ ないとのことで、家族も困り果てていました。仕方なく入院させることにして、救急車で連れて行ったけれど、病院に到着するやいなや逃げ出してしまい、しか もわずかな隙に救急車のカーステレオを抜いてもっていかれたというのです。 |
数ヵ月後にまた家族に保護され、今度こそと薬物を抜くための入院生活を経て、働けるところまで回復しました。診療所テントまでお詫びに来て、まるで別人のようないきいきとした表情に、最初誰だかわからないくらいでした。今はどうしているのでしょう。 難民生活が長くなると将来の設計も建てられません。農民が多かったラティファバドキャンプでは、春の種まきの前に帰らないとその年の生活ができない、と 言っていました。無事に帰還した現在、春にはきっと自分たちの農地で忙しく仕事をしていることでしょう。 |
<女性のストレス> | |
「ちょっと聞いてよ」とある日、憤慨したスタッフがやってきました。若い女性患者の一人があちらこちらの痛みを訴えるのでストレスが原因では、と考えて別 室でゆっくり話しをきいたところ、40歳以上も年上の男性と無理やり結婚させられた、と泣きながら訴えたとのこと。さすがに体裁が悪いと思ったのか、夫に あたる男性は付き添ってきた際には父親だと名乗っていたのです。 難民キャンプのコミュニティーの中で、女性の社会的な立場は弱く、独身女性の恋愛や婚前交渉はご法度でした。父親の言う通りに結婚し、それに金銭のやり取りが伴うことも多いと聞きました。 他にもやはり結婚を決められた女性が、焼身自殺を図ろうとして、火傷を負ったこともありました。幸い跡も目立たず、結婚話も白紙にもどったものの、そのような意思表示の仕方しかないのか、と悲しくなりました。 |
難民キャンプでは、頭からすっぽり全身を覆うブルカをかぶっている女性も多く、女性用の診察室は基本的に男子禁制で、女性医師が診察をします。AMDAの チームは女性スタッフの割合が多く、患者数も女性のほうが多かったのです。女性がひとりで生きていくことが難しい社会の中、知らない土地で今後のこともわ からない、難民キャンプの避難生活がストレスになったのは、女性に負担が大きかったのでしょう。女性だけの待合室でブルカをとって、女性スタッフに話を聞 いてもらう、厳しい生活の中で数少ない気が許せる場所になっていたにちがいありません。 |
<チャマンという町> | |
2003年、アフガニスタン国境沿いの町、チャマン。AMDAはこの町でも保健医療活動を開始しました。 もともとこの町は静かなところで、人口も少ない場所だったそうです。それが難民流入で、一気に人口が増えて、様々な援助団体もきて、町の様子も一変したと のこと。この変化を嘆く人、乗じてひともうけ企む人など、町の人の反応も様々、町は落ち着かず、治安も悪化しました。 |
チャマン郡立病院の医師でさえ、「難民はお金も払わないし、要求ばかり並び立てるから診察したくない」という人もいて、人道援助とか医療倫理とか、理念を並べることはできますが、実際にはやはり自分の生活が一番大事。 難民問題は受け入れる側にとっても深刻な影響を及ぼします。チャマンの町の人達にとってはきれいごとでは済まされない問題だったに違いありません。 |
<モスク> | |
日本でイスラムと聞くと厳しいイメージがあったけれど、パキスタンで私の接したイスラムは、祈りと感謝の心を大事にする素朴な宗教でした。 キャンプから町への途中小さな無人のモスクがあって、帰路に一旦そこで車を止めてお祈り休憩をいれます。祈る人もいれば、ただ体を伸ばすだけの人もいます。 夕暮れの砂漠のなか、私たち以外は誰もいなくて、静かに祈る人、語り合う人、水を飲む人、思い思いに休みをとる。一日に何回か、祈る前に手足と口をきれいにして、体をのばし、静かな時間を持つことは心身の健康にとても良さそうです。 |
今日本でパソコンの前に何時間もぶっ通しで座っていると、あの静かな時間がしみじみと懐かしくなります。
いつかアフガニスタンをゆっくり旅して、あちらこちら見て回れる日が来ることを祈っています。 |
<終わりに> 当時、なにが必要ですか、という私の問いに対して「どの援助団体も報道機関も、最初集まってもすぐに帰ってしまう、なによりも継続してくれることが必要 なのだ」と、キャンプの長老が語っていたことをかみ締めながら、AMDAが5年の長期間、現場の状況に応じて支援内容を変えながら活動を続けてこられたこ とに、あらためて敬意を表します。ありがとうございました。 |