ニアス島緊急復興支援事業(2007/4発行ジャーナル4月春号掲載) – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

ニアス島緊急復興支援事業(2007/4発行ジャーナル4月春号掲載)

ニアス島緊急復興支援事業

AMDA本部職員 小林 恵美子
【はじめに】
2004年12月26日のスマトラ島沖地震、そして、そのわずか3ヶ月後の2005年3月28日に近海で起こった地震によって、ニアス島は甚大な被害を 被った。島の中心地であるグヌンシトリや北西部ラヘワの街では、コンクリートのビルが崩壊し壊滅的な被害を受けた。道路は切断され、多くの橋が崩落、海岸 線の村では、津波と高潮によって人命が失われた。2度の大地震により全島での死者は、1千人以上と言われ、また、被災当時、震災と津波による避難民は約8 万4千名、全壊状態となった家屋は1万4千軒、さらに、半壊状態の家屋となると、3万2千軒にのぼったと州当局は報告している。
アムダは、2005年3月の地震直後には、島に緊急医療チームを派遣した。そして、2005年9月からは、United Nations High Commissioner for Refugees (UNHCR、国連難民高等弁務官事務所)の委託を受け、ニアス島緊急復興支援事業を実施した。このUNHCR事業は、本年1月末に活動を終了したが、ニ アス島はいまだ復興途上にある。アムダは今後も引き続き、ニアス島において支援活動を行っていく予定である。
本稿では、UNHCR事業の完了報告として、この緊急復興支援事業の全体を振り返り、その成果と問題点をまとめるとともに、今後の活動について簡単にではあるが紹介したい。
【事業概要】
1.主事業
ニアス島緊急復興支援事業の目的は、2005年3月28日に発生した地震によって被災したコミュニティに対する支援であり、事業期間は、2005年9月 16日から2007年1月31日(うち、第一期が2005年末まで、第二期がそれ以降)と設定された。
本事業では、大きく分けて、2つの事業を行った。第一が、被災した住民のための仮設住宅の建設および技術支援。第二が、モニタリングで、UNHCRが調 達し、仮設住宅を建設している団体や下請け業者に配布されている木材が、本来の目的どおり、適切に使用されているかどうかを監視する業務である。
2.事業地
ニアス島は、インドネシア・スマトラ島の北西に浮かぶ島である。大きさは、だいたい愛媛県ほどで、約70万人の人々が住んでいる。スマトラ島にあるインドネシア第三の都市メダンとの間に民間の定期便が毎日運航している。
地場産業としては、サーフィンの国際競技も開催されたことがある西南部地域における観光業、海岸線沿いに豊富な資源を抱える漁業に加え、ココナツ、ゴ ム、カカオなどの農作物の生産があげられる。しかし、グヌンシトリに居住する一部中国系の住民や部族有力者を除くと、住民の多くは必ずしも経済的に豊かで あるとは言い難い。
  アムダが仮設住宅の建設、技術支援にあったのは、このニアス島の南東部海岸線に位置する3つの村(ボジホナ、タガウレ、ボトヘンガ)である。ボジホナは、 グヌンシトリから南へ車で片道2時間かかるところにあり、タガウレ、ボトヘンガは、そこからさらにボートで30分から1時間かかる。2005年3月の地震 によって、島の東部側が海に沈みこんだため、これらの村の海岸線にあるココナツの木は枯れ、また、ボジホナでは、家を失ってしまったのみならず、かつて住 んでいた場所が危険な地帯となってしまった住民もいる。
加えて、モニタリング事業の場合は、対象となっているのが、各団体の事業地であり、ほぼ島全域をカバーした。
【事業と成果】
1.仮設住宅建設と技術支援
UNHCRが調達した木材、屋根材、窓、ドアなど、そして、アムダ自ら調達したセメント、砂利などの資材を使って、ボジホナに126軒、タガウレに91軒、ボトヘンガに28軒、計245軒の仮設住宅を建設した。
仮設住宅の建設にはcommunity-based、つまり、住民参加の手法を用いた。大工を雇い入れ、仮設住宅を機械的に建設していくのではなく、住 民が建設工程や大工技術を学び、自らの手で自己の仮設住宅を建設していく、「住民の、住民による、住民のための建設」を目指したわけである。実際、住民は 仮設住宅の基礎工事をそれぞれ行うとともに、アムダが雇っている大工の指導を受けながら、上棟部の建設にも従事した。さらに、村ごとに組織された Community Rehabilitation Committee(CRC、村落復興委員会)が、住民間の利害調整、資材の運搬・保管、治安維持など事業を推進する際に直面せざるを得ない様々な問題の 解決に中心的役割を果たしてくれた。
仮設住宅の建設は、2005年11月に予定されていた最初の木材の到着が、2006年3月半ばまでずれ込むという難しい状況下で行われた。

さ らに、それ以降も、配布された木材の種類に偏りがあったり、8月には木材の調達が中止され、全戸完成が危ぶまれた時期もあった。しかし、 Implementing Partnerとして本事業に従事したアムダには、その後もUNHCRから木材が引き続き供給されることで話がまとまり、最終的には、全戸分の木材が供給 された。最後の木材は、12月末に事業地に到着し、本年、1月16日にすべての仮設住宅が完成した。
2.モニタリング業務
アムダでは、アムダを含む10の団体(Agency for Technical Cooperation and Development、AMDA、Caritas Austria、Church World Service、HELP、Holi’ana’a、Lembaga Pencerahan and Advokasi Masyarakat、Netherlands Red Cross、Samaritan’s Purse、およびUN-Habitat)とインドネシア政府復興再建庁から委託を受けた業者に対する監視を行ってきた。UNHCRが全5回にわたって調 達した木材およびアムダ用の特別調達の木材は、あわせると7,117m3に達する。これらは、仮設住宅建設に従事する各団体に無料で配布されたのである が、きちんと事業地まで運び込まれ、他の目的に流用されることなく、仮設住宅の建設に使用されているかどうかを確認するのがアムダの業務であった。そし て、その結果をデータベースおよび月例報告書にまとめ、UNHCRに提出した。
UNHCRが調達した木材は、仮設住宅建設のために昨年末までに全て使用し終えることが条件となっていたが、上記、団体の中で、予定通り全戸完成したのは、アムダとACTEDの2団体だけである。
昨年11月から12月にかけて行われた最後のモニタリングの時点で、建設予定総数は2,060軒で、そのうち881軒が完成していた。残りの団体は、引き続き、仮設住宅の建設を行い、残りの木材を遅くとも今年半ばまでに使用し終えることとなっている。
3.その他、事業
上記、主要事業のほかに、アムダでは、次のような事業を合わせて行った。
(1)橋および道路の建設および修復
(2)UNHCRからの要請に基づき、共同トイレをタガウレ村に10基建設
(3)修復可能な被災住宅に住む95世帯に対して、修理用支援パッケージの作成・配布
(4)Community Rehabilitation Fund(地域復興基金)を設立し、全地域住民の生活向上のための事業に対する資金の提供(コミュニティ・センターの建設資材購入補助、コミュニティによ るバッファローやヤギの飼育事業、農作物の種の購入など)
(5)仮設住宅用に新たに土地を取得した住民に対して、所有権確認書の取得支援
【問題点】
1.仮設住宅建設と技術支援
仮設住宅建設に当たって、アムダが直面した問題には、大きく分けて3つあった。第一にロジ関連の問題、つまり、資材調達・輸送の問題、第二に村の内外での治安の問題、第三に天候、特に雨季の問題であった。
(1)ロジ
本事業の遂行にあたっての一番の問題は、木材調達の遅れであったが、それ以外にも、現地で購入していたセメント、砂、砂利等が不足したり、価格が高騰したりと、資材調達にあたっては、さまざまな問題に直面した。
さらに、物資輸送の問題は、事業地のうち、アクセスの悪いボジホナ(III)、タガウレ、ボトヘンガで特に深刻であった。これらの村々は、ボートでなけ ればたどり着くことができず、また、資材を海岸まで運び込むことに成功しても、そこから村内部までの道が、トラックを使用するには、細く、未整備であっ た。
アムダは、海岸までは、World Food Programme Shipping Service(WFPSS)から、ランディング・クラフトを借り入れ、さらにUNHCRの助言を受けながら、道路や橋の建設を住民とともに自ら行い、資材の搬入路を確保した。
(2)治安
本事業は、UNHCRからの指示により、2006年3月終わりから4月始めにわたって、約10日間中断した。その理由は、事業地までの幹線にかかってい る橋が地震により壊れたため使用できず、代わりに使用していた迂回路に強盗が現れ、ある国際機関のトラックが狙われるという事件が発生したためである。
治安の問題は、他のNGOも頭を悩ましていた問題である。アムダでは、UNHCR、United Nations Recovery Coordinator for Aceh and Nias (UNORC)、United Nations Department for Safety and Security (UNDSS)、そして、政府復興再建庁から支援を得、現地警察とも話し合いを行い、状況が落ち着くまで、事業地周辺のパトロールを行ってもらうことに なった。さらに、事業が再開して後は、住民がチームを組んで、夜にはフィールド・オフィスや倉庫周辺の見回りをおこなってくれた。
(3)気候
現地の気候は典型的な熱帯性気候で、乾季と雨季に分けられるのであるが、9月から1月頃までが雨季に当たる。時には、激しい雨が降り続き、仮設住宅建設 という屋外での活動を行わなければならない住民、そして、アムダの職員には、なかなか、厳しい季節であった。また、アクセスが海からしかない事業地では、 天候の不順、海の荒れから、事業地そのものに入れない日もあり、事業の進行に与える影響は小さくなかった。
2.モニタリング業務
モニタリング業務においては、主にデータ関係、そして、各事業地のアクセス・治安の問題があった。
(1)データ収集の困難
木材のモニタリングは、UNHCR(港の保管場所)から各団体の木材の保管場所まで、そして、さらに後者からそれぞれの建設現場までの3地点を見る必要 がある。それぞれにおいて、引き渡したとする木材量と受け取ったとする木材量が一致すれば、すべての木材が仮設住宅建設に使われたと見なしうる。そして、 これらのデータは、それぞれの団体から、アムダのモニタリング担当に提出されることになっていた。
しかしながら、団体によっては、関係書類がきちんと保管されていなかったり、また、そもそも配送書類の受け渡しが行われていないこともあった。さらに は、データがきちんと更新されておらず古いものであったり、数字そのものに初歩的なミスがあったりと、精度が疑わしいケースもあった。
(2)各団体の事業地へのアクセス
アムダだけではなく、他のNGOにもアクセスの難しい事業地で仮設住宅の建設に従事している団体があった。オートバイでしかいけない道を3時間走らねば たどり着けない場所であったり、アムダと同様、ボートでないとアクセスできない場所もあった。これらの事業地は、とくに天候が悪いとたどり着くことができ ず、モニタリングの作業も困難を極める時期があった。
さらに、事業地によっては、治安の悪い場所もあり、島内全域へ足を運ばねばならないモニタリング活動の場合は、治安については、特に気を使わねばならな かった。事業実施団体と住民との間で揉め事があり事業地に入れないとこともあり、また、移動の際に、車を止められ、お金を要求されることもあった。
データ収集後に数字の確認をするにも、通信状況が整っていないために、フォローアップ活動も、なかなかスムーズにいかないケースも見られた。
【ニアス島復興支援の今後】
  ニアス島における仮設住宅の建設は、本年1月末で終了したが、アムダでは引き続きニアス島での活動を行っていきたいと考えている。被災以来、既に2年経と うとしているが、ニアス島では、各種インフラ整備など、生活の基本にかかわる様々なニーズが存在している。特に、ニアス島各地におけるモニタリング業務を 行う中で、島内全域において、保健衛生環境の整備の遅れが見られることがわかった。
アムダでは、仮設住宅建設の経験を活かし、島内の12の村、および小学校12校を対象に保健衛生教育・啓蒙活動を行いながら、トイレの建設を行う予定である(現在、外務省に申請中)。
被災によって、多くの国際機関や国際NGOが入り、公共事業で、経済活動も活発化しているとはいえ、アチェに比べると、とかく注目されることが少ないの がニアス島である。復興から開発へと、いかに結びつけることが出来るかが今後の大きな課題かもしれない。
アムダでは、引き続き行っていく活動を通して、ニアス島の今後を見守っていきたいと考えている。皆様方の変わらないご支援を願うとともに、それらのご支援をニアス島のさらなる復興、開発に繋げていくよう尽力したいと思う。
ある日の昼下がりのひとコマ
元AMDAニアス事業調整員 林 朋宏
 その日は村に行かず、事務所でデスクワークをしていた。事務所にはほかにスタッフが数名いた。12時になり、それぞれ食堂で、あるいは家に帰って昼食をとり、再び事務所に戻って仕事をしていた。
そのとき、キィ―――ッ!バンッ!! 大きな急ブレーキの音と何かがぶつかった音がした。交通事故?その瞬間、一人のスタッフが外に飛び出していった。 他のスタッフたちもそれに続いた。私もあとに続き表に出た。見ると、一台のバイクが横転、衝突相手と思われる車が一台、道路わきに止まっていた。事故現場 は事務所のほぼ真ん前だった。事務所は隣には大学、通りを挟んだ向かいには数軒の日用品屋や食堂が立ち並ぶ比較的人の集まる所にあり、あっという間にたく さんの人が集まって来た。そんな中、一番に飛び出していったスタッフは女性を抱え、道路わきの店の前に運び、椅子に座らせていた。
女性は白衣を身に着けていた。看護学校生か看護師かわからないがまだ若い。二人乗りだったらしい。運転していたと見られる男性も足を引きずっていた。女 性の周りは既にたくさんの人が取り囲み、みな傷口を見ている。右足の甲だが、骨が見えそうなほどえぐれていた。重傷である。初めはおそらく何が起こったの かもわからなかったのであろう、女性は呼吸を荒げながらも平静を保っていたが、徐々に状況を理解し、痛みを感じ始め、声を上げ出した。人がさらに集まって 来た。私は本人に患部を見せるのはよくないと思い、黒い大きめのナイロン袋で患部を隠した。
そうしているうちに、通りがかる車に声をかけ始める人が現れた。「病院に連れて行ってもらえないか」と。女性の横にはおばさんが寄り添い、「大丈夫だか ら、気をしっかり持って」と声をかけていた。ほかにも倒れたバイクを起こす人、交通整理を始める人。やがて、女性を寝かせたまま乗せられるほどの大きめの バンが通りかかり、病院まで乗せて行ってくれた。最初に駆けつけたスタッフには付き添いとして行ってもらった。やがて警官がやって来て事情聴取を始め、私 たちは事務所へと戻っていった。この間、10分程度の出来事であった。

  女性のできる限りの回復を祈りつつ、事故の音を聞いた瞬間、考える間もなくとにかく飛び出して行ったスタッフの行動を思い起こし、再度感心した。彼の迷い のない迅速な行動が、周りの人々を触発し、救急の雰囲気を作り出した。集まって来た大半の人は寧ろ興味本位だったかもしれないが、それでもその中にはでき ることはないかと模索する人がたくさんいたのだ。彼の行動はそんな人々の行動を促し、それがまたできることを探しあぐねていた人々の行動を後押し、救急の 輪が広がった。誰もが「人を助けたい」「人の役に立ちたい」という気持ちを持っていることを実感した。
振り返って、プロジェクトを進める日々の業務の上で、私はそういった気持ちをスタッフや村民からうまく引き出せているだろうかと考えさせられた。また、 事故の音を聞いたとき、正直私は「けが人がいたとして、果たして自分にできることがあるだろうか」と躊躇した。それが私の外に出る行動を一瞬遅らせた。他 のスタッフも同じように躊躇し出遅れたのかもしれない。彼らの行動を促すためにも、私が行動に移さなければならなかったのだ。
事務所に戻ると、一人のスタッフが妹に電話していた。「今、すぐ近くで事故があったんだ。バイクの運転は気をつけるんだよ。ちゃんとヘルメットをかぶっ て・・・」。日々の業務を省みさせられると同時に、ニアスの人々をより身近に感じられた出来事であった。