AMDAの歩みにみる「多様性の共存」と「相互扶助」の実現(2007/4発行ジャーナル4月春号掲載) – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
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国連経済社会理事会総合協議資格NGO

AMDAの歩みにみる「多様性の共存」と「相互扶助」の実現(2007/4発行ジャーナル4月春号掲載)

AMDAの歩みにみる「多様性の共存」と「相互扶助」の実現

AMDA代表 菅波 茂
 AMDAの目的は「多様性の共存」である。具体的には物の見方や考え方が異なった人たちがどうすれば共栄共存できるかということである。そのキーワードの一つに「困ったときはお互いさま」の「相互扶助」がある。生きるとは生老病死などの不条理にどのように対処するかである。日本には「まさかの時の友が真の友」ということわざもある。
AMDAは、1984年の設立以来、災害被災者救援活動を大きなテーマとして  ヶ国で  件に取り組んできた。救援活動によって救えずに亡くなった人たちに対してどう対応するのか。そしてその家族にどのように対応するのか。2000年から開始したAMDA医療と魂のプログラム(ASMP)にその答えを見出した。そもそもASMPの目的は第二次世界大戦によって亡くなったすべての人たちに対する慰霊と残された関係者に対する医療プログラムの実施だった。2007年3月の現在までに ヶ国で ヶ所で宗教者の方々の貴重な協力によって実施できている。
2004年12月26日に発生した2百年に1度といわれたスマトラ沖地震・津波による死者 万人と天文学的な数になる被災者救援活動に、本部と9ヶ国の支部が協力して、百名以上のAMDA多国籍医師団スタッフをインドネシア、スリランカそしてインドの3ヶ国に派遣したことを契機に災害被災者も対象にすることに拡大した。
AMDAが宗教と連携することに違和感をもたれる方もあるかもしれない。私は被災者の命を助ける緊急救援活動とそれでも亡くなられた方の慰霊を連動して実施することに間違いなかったことを確信している。フィリピンのレイテ島で地すべり被災者救援活動と災害1周年合同慰霊祭で経験したことをお伝えしたい。
2007年2月 日。フィリピンのレイテ島で地すべり災害1周年合同慰霊祭を実施した。豪雨による山崩れが村全体を埋め、1千名からの村人が死亡した。特に小学校にいた250名の小学生全員が亡くなった報道は世界中の悲しみを誘った。AMDAの本部、フィリピンそしてインドネシアの合同医療チームが、高校における避難者に対して医療活動を実施した。今なお、被災現場では村人がまだ埋もれたままの状態である。合同慰霊祭は被災現場にAMDAが寄贈したチャペルとフィリピン政府によって家を失った被災者のために建設された「新しい村」の2ヶ所で行われた。後者は2日目の朝9時から始まった。叩きつけるような豪雨が式の終わるまで続いた。この豪雨が山崩れを誘発したのかと思った。地元のカトリック教会聖職者の方々と日本から参加された金光教平和活動センターの小林 センター長と西村  事務局長がそれぞれの様式に準じて亡くなられた方々に祈りを奉げられた。
 合同慰霊祭が終了した夜に、クリストレイ高校の生徒が創作の踊りや劇を披露してくれた。南の国のリズムにのった明るい踊りにはほっとした。一方、参加者の涙を誘った劇があった。山の木が切り倒されて、保水されなくなった水が山崩れを誘発して村を襲い、幼い子ども共々に村人が土砂に埋もれていく内容である。演じている高校生たちが本当に絶叫して泣いていた。直視できなかった。亡くなった被災者は現在も村人の心の中では生きていた。AMDAが寄贈したチャペルがわずか30万円で建設できた理由が納得できた。設計者は勿論のこと、村人が総出でのボランティア活動によって完成したのだった。小学生を亡くした母親は埋もれた小学校の跡で定期的に毎晩ロウソクを灯して祈っていた。「今後はどのような天候でもこのチャペルの中で祈ることができます」と喜んでくれた。
「AMDA医療と魂のプログラム」の提唱者でありAMDAの名誉顧問でもあるプリミティボ・チュア先生の提唱により、チャペルの入り口には常時フィリピンと日本の国旗が掲げられることになった。村の人たちも国旗の常時掲揚を喜んで受け入れてくれた。レイテ島では第2次世界大戦中に日本軍と米・比連合軍との間に激闘があり、多くの日本兵が死傷した歴史を想えば感無量だった。中国系フィリピン人のチュア先生は6歳のときに悲惨なマニラ市街戦を経験している。そのチュア先生の提唱である。有難い限りである。
合同慰霊祭に参加してくれた南レイテ医師会長のマトー医師に会えて幸せだった。フィリピンの法律では外国人医師免許での医療活動は禁止されていた。1年前の災害発生時に、私はマトー医師に岡山から国際電話をかけた。「1995年1月の阪神大震災のときに貴国のラモス大統領が神戸の被災者に1ヶ月分の給料を寄付したことで日本人は貴国民に対してとても親しみを持った。その貴国で大変な災害が発生したので医療チームを派遣したいと思っている。是非、南レイテ医師会の権威のもとに、あなたの医師免許の下で医療活動を行いたい。受けていただきたい」と。彼は承諾して、1週間にわたってAMDA多国籍医師団に付いてくれた。彼自身の病院が忙しかったにもかかわらず。
合同慰霊祭の場で私の言葉に村人たちから拍手が沸きあがった。その言葉は現地語で「トロントロン」だった。「困ったときはお互いさま」の意味である。「なぜ、あなたは私を助けるのか」。「なぜ、私はここにいるのか」。「相互扶助」は宗教を超えてアジア・アフリカ・中南米の共通語であると再確認した。
 2008年からはAMDAフィリピン支部が主体となって、毎年このチャペルでの合同慰霊と歯科医学生の協力のもとに歯科治療を貧しい村人のために実施することになった。なお、地元のカトリック教会が毎月慰霊を村の人たちと実施することになった。ASMPのフィリピンモデルの誕生である。本当にうれしい限りである。
毎年1名の両親をなくした孤児の高校卒業後の就学に対する奨学金を発足させた。3年後からは毎年3名になる。条件はただ一つ。将来、AMDAのメンバーとして不条理に巻き込まれた人たちに支援の手を差し伸べてくれることである。メッセージは「AMDAはあなたたちを見放さない」である。「AMDAは必ず来る」のメッセージでもある。
2007年12月1日にはレガスピ市でASMPが開催される予定である。昨年の11月 日に台風21号により1千5百名の死者と20万人の被災者が発生した。セブ島で開催される予定だったAPECが中止になった報道が先行して台風による被害はあまり日本でも報道されなかった。しかし、本部、フィリピンそしてインドネシアで構成されたAMDA多国籍医師団は3週間にわたって救援活動を実施した。うれしいことに、地元の医師会に所属する多数の医師や看護師たちがボランティアとして参加してくれた。AMDAにとっては画期的な救援活動となった。チュア先生とAMDAフィリピン支部が台風21号災害救援活動に引き続きASMPの実施に向けて準備を進めてくれている。
災害救援活動とASMPの連動がAMDAの目的である「多様性の共存」の実現に向かってより多くの人たちとの出会いの契機になればと願っている。
  末筆ながら、うれしい報告をしたい。AMDAの活動にAMSAの参加である。AMSAの正式名称はアジア医学生連絡協議会である。1979年にタイ国にあるカンボジア難民キャンプで何もできなかった経験から、医師によるアジアのための医療プロジェクトを実施するために、医学生のときから交流を開始しようという趣旨で発足させた団体である。1980年にタイで開催したアジア医学生国際会議が出発点である。現在は ヶ国の医学生が加盟しているまでに成長している。そのOBがAMDA台湾、韓国そして香港支部を発足させた。2004年12月に発生したスマトラ沖地震・津波被災者救援活動に初めて参加してAMDA多国籍医師団の活動を支援してくれた。AMSA発足25年目の記念すべき合同活動となった。以後の災害救援活動には積極的に参加している。2008年からAMDA-AMSA連携が正式に動き出す予定である。AMDAとAMSAの両団体の創設者として世界平和に向けて更なる努力をしたい。
皆様方のご理解とご支援をお願いできれば幸いである。