フィリピン レイテ島地滑り緊急救援活動
概況 |
■地滑り被害の状況
発生日 :2006年2月17日10時頃(日本時間11時頃) 被災者数 :死者数140人 行方不明者数972人 避難生活者約3,300人(3/3南レイテ州発表) |
被災地の模様 |
■AMDAの支援 |
活動期間 :2006年2月18日〜
【日本からの派遣者】
【インドネシアからの派遣者】 【現地スタッフ】 9人 |
医療支援活動が軌道に乗るまで | AMDA広報室 奥谷 充代 |
災害発生当日、緊急医療支援チーム派遣決定 |
2006年2月17日朝、フィリピンのレイテ島で大規模な地滑りが発生。AMDAは、チームの派遣を同日夜決定した。 |
活動拠点立ち上げと支援物資購入 |
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翌日の18日早朝、私は先発の調整員として岡山を出発し、関西空港から10:00発TG621便でマニラへ向かう。派遣決定からわずか12時間弱。その 間、出来る限り現地の最新情報を入手し、協力を要請しようと、マニラの日系企業や報道機関、関係団体に電話をした。フィリピン事情に精通している方々ばか りである。的確な数々のアドバイスをいただき、その後のご協力とともに感謝している。 2月19日07:20レイテ島のタクロバン空港到着。KPACスタッフの一人であるリサが、路線バスでソゴッド(南レイテ医師会会長であるマトゥ医師が 勤務する病院があり、被災地のセントバーナード町から車で約1時間30分。派遣チームの宿泊先となったゲストハウスがある)へ向かい、マトゥ医師とともに 現場の医療支援状況視察とチームの宿泊先確保をすることになった。私ともう一人のKPACスタッフであるダフネは、タクロバンで生活支援物資の購入を行っ た。南レイテ州はセブアノ語圏で、公用語であるフィリピノ(タガログ)語圏ではない。ダフネはイロイロ島、リサはミンダナオ島出身でともにセブアノ語圏。 二人は英語も堪能で、医療通訳としても支障はなかった。 2月20日、ダフネと私は、タクロバン空港に到着した薮谷亨医師、竹内美妃看護師と合流して、道路が陥没していたり、地滑りで埋まっていたりする地点を 避けながら通過(日本であれば「通行止め」になりそうなところに、作業員や報道関係者を目当てにしているのか、物売り屋台があった)、セントバーナード町 に15:00頃入った。レイテ島は第二次世界大戦の激戦地でもあり、途中、今にも降り出しそうな曇天の下、緑深い密林を眺め、鎮魂の思いで胸が一杯にな る。救助および救護活動の拠点(Principal Hall)を訪問、マトゥ医師とともに当局と今後の救援活動について協議を行ない、支援物資を提供した。その後そこで紹介された避難所の一つ、クリストレ イ高校を訪問した。現地看護師が一人派遣されていたが、外国人医療従事者が訪問してくれたのははじめてと歓迎を受け、支援活動の拠点とすることを決定し た。 |
現場視察・救援物質輸送
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医療品等救援物質寄付
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本格的な医療支援活動開始 |
2月21日、午前中は、ホールと同じ敷地にあるオペレーションセンター(St.Bernard Rural Health & Family Planning Center)で、マトゥ医師のサポートとして藪谷医師と竹内看護師が短時間診察した。それから、チーム全員で被害の大きいギンサオゴンを視察。フィリピ ン、アメリカなど各国軍の救出作業が続いていた。地滑り現場と川をへだてた対岸にある各国軍のテントが設営されたところまで、数ヵ所設けられたチェックポ イントを通過して行った。時折激しい雨が降る中、死臭が漂い、救助活動の困難さが身にしみた。午後は、クリストレイ高校避難所で、健康診断を兼ねた診療を 開始した。今回の災害による直接の創傷よりも、心的なショックや慢性疾患を悪化させている患者が目立った。
そして、夕刻、木下真絹子調整員と小山奈嘉子派遣調整員が到着。 |
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2月22日、午前中にセントバーナード町の東に位置するアナハワン地区病院(Anahawan District Hospital)を医療状況調査のため訪れ、病院側の要請により診察に加わった。今回の地滑りによる重症・中等患者が救助現場から搬送され、病室が足りず廊下にもベッドが並べられていた。需要の高い医薬品や医療消耗品などを提供する。
午後、AMDAインドネシア支部のイリアワン・イドリス医師とマヘンドラタマ・P・アディ医師が合流。 2月23日、ダフネとリサ、私の先発チームはマニラで後方支援を行うこととし、タ クロバン14:50発のフライトでマニラに戻る。 |
アナハワン地区病院での診療視察 |
AMDAの医療支援活動 | AMDA本部職員 木下真絹子 |
AMDAの現地での緊急救援活動:避難所と病院での診療・健康診断・救援物資(医薬品、医療消耗品、生活物資など)の配給 |
避難所収容 状況(2006年2月28日現在)
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医療支援活動をした避難所について |
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避難所は5箇所に急遽設置され、2006年2月28日の時点で合計3272人(920世帯)が避難していた。一番離れた避難所で地滑り災害現場から約9キロ離れたところにある。 |
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クリストレイ高校避難所の様子 |
避難所の環境について |
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私たちが医療支援を行っている間も、毎日雨は降り続いた。第二次災害の恐れを心配し、自宅を離れ避難所に移る人が増えていった。そのため、避難所の一人 当たりの収容面積は少なくなる一方で、5箇所の避難所の中でひどいところは一部屋に85人(5箇所の平均59人)も収容されているという状況であった。な お、WHOは一部屋(7mx7m)につき25人をスタンダードとしている。
また、水の配給は一日一人当たり5リットルしかされていなかった。WHOスタンダードでは10リットル/日/人が必要になる。さらに、トイレも20人に 1台が適切とされるところを、避難所では35人が1台使うという状況が見られた。機能しなくなったトイレも多々見受けられた。ごみ処理も問題も、緊急災害 医療マネジメント会議のなかで課題としてたびたび上がった。ゴミ処理容量として本来であれば6人につき100リットルの容量が標準とされているが、避難所 では45人につき100リットルの容量しかないことが分かった。食料に関しては、国際・地元の支援により、それほど不足している様子は見られなかった。 |
AMDA医療チームによる診療結果 |
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<症状別分類>
* 1患者につき複数の症状を診察した場合も含める |
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カトモン小学校(左)、クリストレイ高校(右)、各避難所での診療と健康診断 |