連載インタビュー「支える喜び」シリーズ 第38回 インドネシア・ハサヌディン大学農学部 AMDAマリノ農場 ランピセラ教授 – AMDA(アムダ)
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連載インタビュー「支える喜び」シリーズ 第38回 インドネシア・ハサヌディン大学農学部 AMDAマリノ農場 ランピセラ教授

連載インタビュー「支える喜び」シリーズ 第38回 インドネシア・ハサヌディン大学農学部 AMDAマリノ農場 ランピセラ教授

AMDA を支えてくださっている方々の様々なエピソードをインタビュー形式でお届けします。今回は、インドネシア・ハサヌディン大学農学部のドロテア・アグネス・ランピセラ教授です。

(聞き手: AMDA 本部 近持 雄一郎)
 

AMDA

先生は AMDA がインドネシアで有機農業を行っている『AMDA マリノ農場』 の運営に携わっておられます。最初に AMDA について知ったのはいつのことでしたか?
 

ランピセラ

たしか留学先の京都から帰国してからだと思います。京都大学の大学院で、修士課程と博士課程を終えたのですが、その頃は主に砂防(林学)や環境における水の循環について学んでいました。「水文学」なんて聞いたことないでしょ(笑)。考えてみれば、砂防は今 AMDA が注力している防災の一環といえるかもしれません。

AMDA

水文学とは?
 

ランピセラ

地域でどうやって水を接取するかとか、灌漑用水の分配についてとか、そういったことに関する学問ですね。所属は農学部ですが、以来、水に関する研究をずっとやっています。
 

AMDA

実際に AMDA の活動と関わるようになったのは、やはり AMDA インドネシア支部のタンラ支部長がきっかけでしょうか?
 

ランピセラ

留学を終え、母校で現在の勤務先でもあるハサヌディン大学に戻りました。その時、若手講師を統括していたのが医学部のタンラ教授でした。タンラ先生は、ご自身も広島大学に留学しており、すでに AMDA インドネシア支部の活動を始めていたので、日本帰りの私に声が掛かったというわけです。
 

AMDA

菅波理事長との出会いは?
 

ランピセラ

日本で行われた会議にインドネシア支部の代表として参加した時ですね。その後、しばらくしてAMDA の災害関連の会議が行われたのですが、その時に初めて岡山県の新庄村を訪ねました。これが現在のマリノ農場をはじめとする『AMDA フードプログラム』の発端となるわけですが、この時、有機農業を含む、農業の重要性を改めて実感したのです。
 

AMDA

インドネシアにも以前から有機農業はあったのでしょうか?
 

ランピセラ

必ずしも真新しいものではありませんでしたが、外国人の多いバリ島など一部の地域を除いては・・・という感じでした。それが、新庄村を訪れた際、菅波先生が強調していた “ 食と健康の繋がり”を強く感じたんですね。そしたら、菅波先生が、「是非インドネシアから研修生を呼んで、プロジェクトにしよう」と。
 

AMDA

「食は命の源」という AMDA フードプログラムの考え方ですね。
 

ランピセラ

あの時の経験は大変意義深いものでした。その後、インドネシアから二人の研修生が来日し、新庄村で数ヶ月間研修を受けることになるのですが、そのうちの一人は現在でもマリノ農場の牽引役を担っています。
 

AMDA

来年でマリノ農場も 10 周年を迎えます。AMDA フードプログラムにとっても節目の年となりますが、今後の展望はいかがでしょうか?
 

ランピセラ

今後注目していきたいのは、サゴヤシという農作物です。近い将来、食糧危機の可能性が指摘されていますが、サゴヤシから採れるでんぷんは食糧としての利用価値が大変高く、小麦粉や米に代替する作物ではないかと思います。そもそもサゴヤシの重要性を見出したのは日本の研究者なんですよ。
 

AMDA

有機農業から食糧の確保という流れを考えると、今後の方向性として理に適っていますね。
 

ランピセラ

特にウクライナ危機以降、サゴヤシは徐々に注目を集めています。農作物として収穫ができるようになるには 7、8 年かかりますが、今から 10 ヵ年計画としてプロジェクトをスタートさせれば、時勢に見合った結果が得られるのではないでしょうか。
 

AMDA

今後の展開に注目していきたいと思います。本日は貴重なお時間をありがとうございました。