連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第36回 元台湾医師会会長 呉運東(Yung Tung WU)先生 – AMDA(アムダ)
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連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第36回 元台湾医師会会長 呉運東(Yung Tung WU)先生

連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第36回 元台湾医師会会長 呉運東(Yung Tung WU)先生

AMDA を支えてくださっている方々の様々なエピソードをインタビュー形式でお届けします。今回は、台湾と AMDA の関係を長年に渡って繋いでいただいている呉運東先生(以下、WU 先生)をご紹介いたします。(聞き手: AMDA 理事 難波 妙)
 

AMDA

WU 先生はとても日本語を上手にお話しになりますね。
 

WU

私は 1938 年生まれです。もう85 歳になります。私が小学校に入ったころ、台湾はまだ日本の統治下にありましたので、最初に日本の教育を受けました。しかし、小学校 2 年生の終わりごろから中国の教育を受けることになりました。当時、日本語で話すことは禁じられていましたが[pagebreak]、その後、大学の医学部に進み、より高度な勉強をするために、東京で内科医をしていた叔父から、日本語の医学書を送ってもらいました。つまり、日本語で医学を学んだのです。1970 年、私は半年間日本の結核研究所で研究を進め、論文を書き、東邦大学で博士号を取得しました。当時、日本人の看護師さんと文通もしましたよ。日本語で一生懸命手紙を書きました。今、その方が何処にいらっしゃるかはわかりませんが、これもとても良い思い出です。
 

AMDA

その後アメリカで研鑽を積まれましたね。
 

WU

1980 年から 9 年間、さらにアメリカで学びました。帰国した 1990 年に台湾医師会から台湾の桃園市の医師会会長の話があり、3 年間務めました。その後は、台湾医師会会長を 6 年間務めました。
 

AMDA

WU 先生のご人脈の広さにいつも感心させられます。
 

WU

私は世界医師会をはじめ、国内外の医師会関連の活動に多く参加しました。自ら出向いて沢山の人たちと直接会い、様々な問題を提起し、解決することが大切だと思ったからです。台湾でも多くの会議を主催し、世界各国の医師会関係者を招聘しました。日本の会議では、二次会のカラオケで、日本人医師がいつも歌っていた「昴」を今でもよく思い出します。私は、このような人と人との心のふれあいが何より楽しくて大好きです。これまでのご縁は様々な形で今も続いています。
 

AMDA

WU 先生のご尽力により、AMDA は台湾保健省の国際 活動部門『台湾 IHA』(Taiwan International Health Action)と 2009 年に協力協定を締結しました。これまで、インドネシア、スリランカ、トルコ、インドで、白内障手術、口唇口蓋裂手術等、8 回の医療技術支援をともに行ってきました。またネパールの AMDA ダマック病院では、内視鏡の提供も受けています。台湾の国際貢献は WU 先生のご貢献から始まったと聞いています。
 

WU

2000 年当時の陳水扁総統は、台湾の国際貢献にとても力を入れていました。当時、私は、より外交と医療を重視した国際関係構築のために、台湾の保健省と外務省が協力して国際貢献を進めるべきだと考えました。そこで、双方の省から担当者を出すことを提案し、緊急救援活動や研修等を通じた海外人財育成を進めてきました。これが台湾 IHA の出発点となり、今や、2 月のトルコ大地震の際には、発災から 20 時間で救援チームを現地に派遣するようになりました。台湾の国際貢献は、南アメリカ、東南アジア、オセアニアへと広がっています。このような過程で知り合った AMDA の菅波理事長のことは弟のように思っています。
 

AMDA

最後に AMDA への期待をお聞かせください。
 

WU

台湾 IHA は政府の国際貢献部門です。そしてAMDA は、世界に支部を持つ国連認定の NGO です。それぞれの強みとネットワークを活かせば、より幅広く効果的に世界の平和に貢献できると思います。平和を築く第一歩は、人と人とのつながりから始まります。その一歩の大切さを私たちは決して忘れてはいけません。