連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第34回AMDA ネパール初代支部長 ラメショール ポカレール様
AMDA を支えてくださっている方々の様々なエピソードをインタビュー形式でお届けします。今回は、AMDA ネパールの初代支部長 ラメショール ポカレール医師です。(聞き手: プロジェクトオフィサー アルチャナ シュレスタ ジョシ)AMDA
菅波代表との出会いについて教えてください。ポカレール
1986 年、ネパールで医 学 生 の グ ル ー プ『Nepal Medical Students’ Society』 の国際担当をしていた私は、AMSA(アジア医学生連絡協議会)の第 10 回国際会議に参加するため、日本に招待されました。その際、菅波代表は AMSA の創始者として参加しており、滞在先の有馬温泉[pagebreak]で同室になったのが最初です。当時、医学生だった私は、「将来的に AMDAの支部をネパールに作りたい」と菅波代表に伝えました。既にインド、インドネシア、バングラデシュなどに支部があり、AMDA の 6 回目の総会でAMDA ネパール支部の設立が決定しました。AMDA
ネパール帰国後に AMDA ネパールを設立されたのですね。ポカレール
支部設立を考えた理由の一つに、当時のネパールの医師たちには、国際交流の機会があまりなかったことが挙げられます。私は、設立について同僚の医師たちに話をすれば、必ず協力してくれると信じていました。中には不安に思っていた仲間もいましたが、最終的には私の強い意志を信じて、積極的に関わってくれました。ネパールでは当時、独裁的な王国制度があったので、NGO として登録する時も、「政治的な活動をするのではないか」と政府から懸念されました。しかし、私たちが社会活動を行う医師の団体であることを説明し、1990年に正式に登録することができました。最初の主なプロジェクトは、ブータン難民の支援プロジェクトでした。難民支援は経験がなかったものの、難民キャンプを訪問した際、妊婦さんの健康に対する意識、医療従事者の不足、国立病院が遠い等の問題が露見しました。そこで難民のための診療所を設立し、医療活動を始めました。難民がいつまでもその地域に留まらないことに加え、当時は周辺にも病院がなかったので、難民と地域住民の両方が医療サービスを受けられるよう、30 床のコミュニティー病院としました。今やその病院は、100 床の総合病院として地域に根差しています。
また、ネパールは妊婦や新生児の死亡率がとても高かったので、小児病院を設立し、死亡率を減らしたいと考えました。しかし、資金がなかったため、日本の病院や他の組織にも、ネパールで小児病院を建設する必要性を広く訴えました。当時、私は神戸大学で勉強しており、1995 年の阪神淡路大震災の時はたまたまネパールにいたのですが、日本に戻った時、港側の避難所に行って支援活動に参加しました。ネパール人医師たち 3 人も被災者支援に携わったので、そのお礼としてネパールで病院を建てる企画が持ち上がりました。その後、これが「ヒマラヤのふもとから」という記事として毎日新聞に連載され、この企画から集まった寄付金をもとに「ネパール母と子の病院」が設立されました。