連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第30回 読売新聞東京本社常務取締役 南 砂 様 – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第30回 読売新聞東京本社常務取締役 南 砂 様

連載インタビュー「支える喜び」シリーズ第30回
読売新聞東京本社常務取締役 南 砂 様

AMDAを支えてくださっている方々の様々なエピソードをインタビュー形式でお届けします。今回は、読売新聞東京本社常務取締役、南 砂様(以降敬称略)です。(聞き手:AMDA理事 難波 妙)
 

AMDA

精神科の医師から、新聞人として伝える側になられた経緯についてお聞かせください。
 

医学を学んだのは、医師で生理学者だった父を高校3年生の時に亡くしたことがきっかけでした。しかし、「国際的な仕事に就きたい」という、もともとの夢を諦めきれ[pagebreak]ず、1979年医学部を卒業すると、WHO(世界保健機関)で働くことを目指してベルギーに留学しました。残念ながら当時のWHOに私が働ける場はありませんでしたが、留学中に、国境を越えて移動する労働者や難民などのメンタルヘルスを研究する領域に出会い、帰国すると精神科の医局に入りました。ちょうど1980年代の日本にはインドシナ難民が漂着し、「中国孤児」が家族を捜して帰国するなど、異文化背景の人々の社会問題があり、それらの調査に関わることができたのは幸運でした。間もなく、ASEAN諸国からの「国費留学生」に関わるようになり、NHKの番組作成を手伝ったことがきっかけで、新聞社に転職したのです。
 

AMDA

そこで「診る側」から「伝える側」になられたのですね。
 

当時、日本の精神科医療は患者の人権や自由意思が尊重されないとして、旧厚生省がWHOから厳しく改善を勧告され、法改正を促されていました。精神科医療だけでなく、医療全般を見渡しても、国民の理解は不十分で、伝えることの必要性を痛切に感じていました。読売が他社に先駆けて医療の報道を拓いていたことに加えて、情報が量も質も爆発的に増える時代だったことが転職の大きな追い風でした。
 

AMDA

東日本大震災の現場取材にあたりAMDAを取材されたそうですね。
 

壊滅的被害を受けた南三陸町にイスラエルが国軍の医療団を派遣することを申し出ましたが、当初、地元は必ずしも歓迎の姿勢ではありませんでした。しかし、地域はこれを受け入れ、医療チームは見事な医療援助をし、地元だけでなく日本中の国民に深い感銘を与えました。関係者の認識が変わった一因は、緊急医療援助で揺るぎない実績を上げていた日本のNGO、AMDAの存在であると聞き、代表の菅波先生に電話取材したのです。世界中で起こる災害や紛争の被災者に医療者がいち早く駆けつけることがいかに喜ばれるか、さらに日本がそれを担うことにいかに大きな意味があるのか、AMDAは世界各地で示してきたのです。現場の声とともに、隠れた背景事情を伝えることの重要性を思い知った取材でした。
 

AMDA

インターネット社会の中で新聞の役割をどうお考えでしょうか?
 

東日本大震災当時、読売新聞の発行部数は1千万部を超えていました。現在では700万部余りで、激減は各社共通。情報のデジタル化が追い打ちを掛けた結果です。読売が紙にこだわるのは、読み書きという行為が、人間の叡智の基本となる高度な知的活動だからです。関心のある記事だけを見られるインターネットを忙しい現代人が志向するのはやむを得ないことですが、新聞には「一覧性」があり、内外の多様な出来事を見渡すことができます。様々な記事に触れて日本の立ち位置、世界の価値観を知り、内と外を真剣に考えることが、今こそ求められており、その手がかりとして新聞は不可欠だと思います。
 

AMDA

これからのAMDAへの期待をお聞かせください。
 

AMDAは読売国際協力賞第二回受賞者です。1995年10月の授賞式で菅波先生は、「多様性の増す21世紀、人道援助を通じた相互理解が平和に繋がる」と話されました。そして今、長年賭けたネットワークを基盤に「世界災害医療プラットフォーム」の構想を温めておられます。このコロナ禍で、AMDAの構築されたネットワークに、弊社のインド支局も助けられました。国際協力の中でも「命」に係わる医療援助は、切り札というべきものです。「世界災害医療プラットフォーム」が盤石なものとなり、世界の平和に寄与することを心から願うとともに、私どもも惜しみない応援をしたいと思います。