第7回 サーダー・A・ナイーム医師 – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

第7回 サーダー・A・ナイーム医師

連載インタビュー 「支える喜び」シリーズ
第7回 サーダー・A・ナイーム医師
日本バングラデシュ友好病院(JBFH)院長
AMDAバングラデシュ支部長

第7回目となる今回は、2015年10月11日に岡山市で行われた「第3回国際医療貢献フォーラム」に基調講演者として招へいされたAMDAバングラデシュ支部の支部長、サーダー・A・ナイーム医師にお話しを伺いました。

 文部科学省奨学生としての日本留学

AMDA:
ナイーム先生のご経歴の原点は、日本の文部省(現文部科学省)の奨学金で日本に留学されたことと伺いましたが。
ナイーム:
そうです。私がダッカ大学医学部を卒業した1985年は、卒業後に欧米諸国へ留学して専門職を学ぶことが主流でした。私もそのような留学を目指していたのですが、ダッカ大学の歴史学部の教授が(後から私の義理の父になるのですが)、奨学金制度のある日本への留学を薦めてくれたのです。第二次世界大戦後、素晴らしい経済発展を実現した日本から学ぶことは貴重だと。当時はメールもインターネットもない時代。何とかコンタクトを取ろうと、資料集の中から独力で肝臓、胆嚢、膵臓の外科医を探し、第一人者の東京大学の教授に手紙を書きました。するとその教授は、面識もない私の熱意だけを評価してで推薦状を書いてくださり来日が叶いました。そして1987年から5年半の間、東京大学第二外科で、日本でもまだ新しかった腹腔鏡手術の技術習得に邁進しました。この技術を母国でも広めることが自らの使命と確信した私は1991年、母国の外科医を日本に招へいし、東大の私の手術室での様子を見てもらいました。その年末、母国の外科学会と協力して、母国でも手術の生中継をしました。次の日の新聞各紙で、私の手術が「新しい医療技術の幕開け」と紹介されたことは今でも覚えています。

AMDAという魅力的な名前

AMDA:
AMDAとはどこで出逢ったのですか。
ナイーム:
1988年末、東大の手術室の看護師さんが、私に一枚の英語の会報誌を渡してくれました。「Association of Medical Doctors of Asia」,―この名前に私の心は震えました。アジアの医師である自分もこの一員ではないかと。以来菅波代表との手紙のやりとりが始まり、1989年大阪で行われたAMDAインターナショナルの会議に参加したことがきっかけでAMDAバングラデシュ支部が発足しました。支部の最初の活動は1991年4月、バングラデシュに流入したミャンマー難民の救援です。私がAMDAのチームリーダーだったので、多くの海外のNGOが停留を余儀なくされる中、AMDAの活動許可は1時間でおりました。この時まさに、菅波代表の「活動は常に現地の価値判断を優先させる」というローカルイニシアチブ(現地主導)を最大限に発揮できた瞬間だったと自負しています。

自分にあったのは、技術と「サムライ精神」だけ

AMDA:
日本での留学経験とAMDAとの出逢いをどのように活かしてこられたのですか?
ナイーム:
1989年、私は卒業後の計画について菅波代表に相談したところ、母国に小さい手術室のある病院を作らないかと勧められました。AMDAが運営する病院にしようかと考えましたが、NGOというのは団体組織ですから、責任の所在が明確ではありません。しかし自分が運営するとなると、卒業直後の身には、資金も担保もありません。そこで、日本の最先端技術を母国で活かすべく、バングラデシュから日本に留学していた3人の医師と協力して、病院を建てることにしました。けれど自分たちにあったのは、日本で学んだ技術と「サムライ精神」だけ。しかし、菅波代表は、私たちの技術とサムライ精神を担保に、12年返済ローンで資金を貸してくれました。そして1994年、菅波代表自らが名付けられた、「日本バングラデシュ友好病院」の開所式が、当時の大統領出席のもと行われました。日本とバングラデシュ間の初めてのジョイントベンチャーだったからです。代表は資金面で苦しかった私たちを信頼して、貸付融資をしてくれました。けれど、銀行の利子が返えせるかどうかは分からなかったし、病院がうまくいくかどうかも分からなかった。そんなリスクを超越する信頼に応えるため、私は必死に働きました。そして8年間で、すべて返済を終えました。開業当初は小さな30床の病院でしたが、現在は100床の総合病院にまで発展しました。

これからの国際医療貢献について

AMDA:
これからの国際貢献に期待することは何ですか?
ナイーム:
私は、日本の方々の税金である文部科学省の奨学金、そして菅波代表からのローン、各機関の協力をいただいたことで、母国に貢献することができています。文部科学省の留学生への奨学金総額は相当な額になります。しかし残念なことに、卒業後、彼らは、技術を活かせない母国には戻らず欧米諸国に活躍の場をもとめます。これは実にもったいない話ではありませんか。日本で勉強した海外の学生が母国に貢献することで両国間の絆がうまれ、本当の奨学金の意義があるというものです。母国に帰った学生たちを支援する仕組みが今、求められていると思います。
そして、若い世代には、「待つべき時間」というものがあるといことを伝えたいですね。忍耐が必要です。急ぐことはそこに妥協が生まれます。様々な人々のご縁によって自分が活かされる場所があるという謙虚さをもつべきです。自然もそうです。花が咲くまでに時間と土が必要なように。
AMDA:
ナイーム先生の撒かれた種が、バングラデシュの未来に咲くのですね。楽しみにしております。ありがとうございました。