西日本豪雨で甚大な被害が出た倉敷市真備町。近隣の医療拠点として倉敷平成病院(倉敷市老松町)は、患者や被災者の方の受け入れをはじめ、避難所への往診など支援に奔走されました。その陣頭指揮を取られた倉敷平成病院(倉敷市老松町)の高尾聡一郎理事長に支援の内容や病院の理念などを伺いました。
AMDA
西日本豪雨では大変、お疲れさまでした。被災直後の7月8日から、病院内で最初に対応されたのは高尾理事長とお聞きしています。
高尾理事長
災害が少ないと言われている倉敷市で、これほど大きな自然災害を目の当たりにしたのは非常に衝撃でした。しかし幸いにも当院周辺には目立った被害は無く、それゆえ私たちに求められている行動に一層の緊急性や責任を感じました。未曾有の混乱の中、刻一刻と変化する被害の状況を見て、被災地のニーズや適切な対応を迅速に判断しなければならない。その判断のためには現地を知るのが一番だろうということで、現地・避難所へ足を運んで現状判断を行いました。
AMDA
被災地に入られた時の第一印象は如何だったでしょうか。
高尾理事長
私は東日本大震災、熊本地震でも現地に出向きましたが、水害ということで真備町は東日本の津波被害によく似ていました。水が引き、建物などは残っていましたが、一度浸水した家屋には一見しただけでは分からないダメージがあり、復興には長い時間がかかると感じました。
AMDA
その後の倉敷平成病院の活動は素早かったですね。
高尾理事長
倉敷市消防局に当病院の空きベッドの数を連絡。職員にも被災者が約30名おりましたので、職員寮や介護施設を開放しました。医師・看護師など多職種によるチームで倉敷西小学校の避難所を毎日往診し、AMDAの依頼で総社・真備の避難所に職員を派遣しました。当時は季節柄熱中症などの健康被害も多く見られました。被災された方だけでなく、現地で作業されるボランティアの方々の医療支援にも全力を挙げて取り組んだ結果、救急車の受け入れが7月は329件と平常月の約1.8倍、8月中旬までに延べ150人の職員が様々な形で活動したことになります。
AMDA
近い将来、発生が心配される「南海トラフ地震」についても事前準備に取り組むAMDAに積極的に協力して頂き、自衛隊のヘリやAMDAの車で計4回、四国に同行してもらいました。感謝しています。
高尾理事長
AMDAはこれまでも国内外の紛争や被災地に迅速に緊急チームを派遣しておられます。来る南海トラフ地震の際は当院も、AMDAの長く積まれた実績による的確な指示のもと、すぐに現場に駆けつける所存です。当院の強みである一貫した医療・介護を通し、今後懸念される大規模災害に向けてより一層AMDAと連携を強めていきたいと考えています。
AMDA
1988(昭和63)年、貴病院の前身である全仁会高尾病院を開設されましたが、「全仁会」という名前はどのような思いで付けられたのでしょうか。
高尾理事長
全仁会は「すべての医療は思いやりの心である」という意味の中国の故事「医療これ仁なり」に由来しています。全仁会の目指す医療は、病気だけを見るのでなく、病気を患っている患者さんのすべてを診る、継続的に診るという意味が含まれています。創設者で私の父の高尾武男が命名しました。父はAMDAの菅波茂理事長と30年来の付き合いをさせていただいています。
高尾理事長
高尾理事長
パーキンソン病やジストニア、慢性疼痛などに悩む患者さんの治療に、多職種によるチーム医療で取り組んでいます。今年は「神経放射線センター」を開設し、医療の質の向上に努めています。
AMDA
開院以前から続けられている患者さんの会「のぞみの会」は今年で53回目を迎えました。全仁会のロゴマークやマスコットキャラクターも作成されています。
高尾理事長
毎年約1000人が参加されるこうした会はおそらく全国でも最大規模ではないでしょうか。ロゴマークは私が理事長に就任し、全仁会グループの一体感を高めるために作成しました。ロゴ、キャラクターともに職員のデザインです。病院に関わる方にとって、親しみを持っていただきたいと思います。
AMDA
最後に、理事長の抱負を聞かせてください。
高尾理事長
座右の銘としている「共に生きる」。これは私が脳神経外科医として駆け出しだった頃、後遺症として麻痺が残るなどハンデを抱える患者さんに対し、「患者さんの一生を共に生きる覚悟がないと手術をしたらだめだ」と決意を固めた言葉です。患者さん、ご家族、自分の家族、そして職員。それらの人々と共に生きていくことを志しています。奇しくも「救急から在宅まで」という病院理念と通じるところがありますね。