スリランカ和平青少年交流とAMDA賞の設立 – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

スリランカ和平青少年交流とAMDA賞の設立


交流会場となったビーベカナンダ中学校で。
前から2列目の右から3人が黒田良美さん、
5人目が渡代隆介君、
7人目からサマラゲ医師、筆者、AMDA竹谷参与

8月22日から3日間。スリランカの北部に位置するキリノッチで青少年交流プログラムを実施した。AMDAスリランカ支部、セントジョンズアンビュランスとライオンズクラブ306A1の合同主催。目的は30年間に及ぶ内戦により相互不信に陥ったシンハラ、タミールそしてイスラムグループ間の青少年間の相互理解を、宗教、アートそしてスポーツを通して、推進すること。

今年は2003年から3年間、AMDAが巡回診療と健康教育を実施したキリノッチを選択。キリノッチはタミールグループの中心地だった。当時は周辺には厳しい戦闘地域も含まれていた。学校や医療施設は崩壊しており、家庭における健康や衛生教育も中断していた。4年前からキリノッチは復興途上にある。戦闘の跡もあり敗戦後の日本を彷彿(ほうふつ)させる。三つのグループ間の融和と支援が最も必要とされる貧困地域である。

交流プログラムの場所はビーベカナンダ中学校。約700人の生徒。4年前、ユニセフとオーストラリアの援助で設立された。交流プログラムのために80人の生徒が教室に宿泊し、軍が寝袋、食事や施設などの便宜を図った。日本から参加したAMDA高校生会の渡代隆介君と黒田良美さんも彼らと宿泊を共にした。三つのグループ間の交流は大いに盛り上がった。特に、彼らの天性のブレークダンスは年齢、性別とグループを超えた時空を演出。AMDA高校生会とビーベカナンダ中学校のスカイプによる交流計画が浮上。次の国際理解教育プログラムである。

今回キリノッチを選んだ理由は、元AMDAスタッフに対する感謝状と記念品の贈呈だった。「私たちはあなた方を忘れていません」というメッセージである。彼らは日本から派遣された看護師と共にAMDAの活動を担ってくれた。06年から政府軍がLTTE(タミールイーラム解放の虎)を完全制圧するまで激烈な戦闘があった。たくさんの地元の人たちが死亡。生存した人たちは難民収容施設で厳しい生活。元AMDAスタッフも例外ではなかった。うれしいことに、元AMDAスタッフの8人全員と再会することができた。彼らも私たちとの再会を待ち望んでいた。「AMDA保健プロジェクトをいつ再開するのか。日本の優しい看護師たちと一緒に働きたい」が彼らの希望だった。彼らはAMDAにとって生涯の友である。

AMDAが03年から紛争地でプロジェクトを実施できたのは2人のスリランカ人のお陰である。1人はAMDAスリランカ支部長のサマラゲ医師。彼は名門コロンボ大学医学部で公衆衛生の教鞭(きょうべん)をとっていた。多くの医学生がスリランカ全土で要職についている。師弟関係の明確なスリランカにおける彼の影響力は絶大である。もう1人はAMDAインターナショナル事務局長にしてコーディネーターの二ティ氏。彼はタミール人。彼の存在により紛争地のタミール人がAMDA医療チームを心から受け入れてくれた。加えて、日本の看護師の気配りと優しさが紛争地域の人たちの気持ちを和ませたことも付記したい。

AMDAの活動を記念して「AMDA賞」を設立し、シンハラ、タミールそしてイスラムの中学校別の成績優秀者3人へ贈呈を決定。1951年のサンフランシスコ講和会議でジャヤワルデネ・セイロン(現スリランカ)代表が日本への賠償請求を放棄した。「憎しみは憎しみでなく、愛によって消える。そして日本は隣人である」という感動的なスピーチによって。「AMDA賞」が日本とスリランカ三つのグループの相互理解と友好の継続に寄与できれば望外の喜びである。