2004年末に起きたスマトラ沖地震大津波の
犠牲者慰霊をインド被災地で行う
中島妙江・太生山一心寺ご住職(手前左)
2005年
2012年11月吉日。岡山国際ホテルにて中国電力会長の山下隆氏と「2013年新春の対談」を行った。春風駘蕩。いつまでも尽きぬ話を楽しめるお人柄だった。企画をしていただいた電気新聞社にはこの紙面を借りて厚くお礼を申し上げたい。
1969年。岡山大学全学ストライキに伴う10ケ月間のアジア12ケ国ヒッピー旅行中のある経験を紹介したい。最後のマニラ−マルセイユのフランス郵船にのって横浜からシンガポールに上陸した。日本人が珍しい安宿の外でたくさんの中国人に囲まれて雑談が始まった。「日本のどこから来たのか」の問いに「広島県で生まれた」と応えた。「ああ、あの広島か。原爆の被災者は大変だったろう。気の毒なことだ」と1時間くらい同情で盛り上がった。
そのあとが恐ろしかった。「我々はあの戦争中にたくさん殺された。これに対して日本人はどう考えているのか」と。殺気立った雰囲気に変わってきた。後味悪く安宿に引き上げた鮮明な記憶である。
私は1946年に広島県福山市で生まれた。1964年に岡山大学医学部に入学して以来、岡山に居住。1971年にAMDAの源流となる岡山大学クワイ河医学踏査隊をタイとミャンマーとの国境地帯にあるパゴダ農場(タイ領内)に派遣。以後、国際医療活動を続けている。1984年に設立したAMDAはアジアを中心に30ケ国に支部がある。平和を語れば必ず支部の関係者に太平洋戦争の犠牲者がいる事実を避けられない。2000年から太平洋戦争の犠牲者の合同慰霊を日本と現地の宗教家の人たちの協力により実施してきた。「戦争の記憶は三世代−百年たたないと歴史にならない」との思いからである。「AMDA魂と医療のプログラム:ASMP」として実施した国と地域はフィリピン、インドネシア、カンボジア、ミャンマー、ベトナム、スリランカ、モンゴル、パプアニューギニア、サイパン、台湾である。2004年末に発生したスマトラ沖地震大津波以降は災害被災者のための合同慰霊も実施してきた。
沖縄県は太平洋戦争により日本で唯一、住民を巻き込んだ地上戦の場となった。摩文仁の丘にある24万に及ぶ敵味方を問わない犠牲者の名前を記した碑は圧巻である。世界史において数多くの戦争により血が流されたがこのような碑は沖縄にしかない。学ぶべきはこの精神である。
広島では毎年8月6日に原爆慰霊祭が行われる。盛大になればなるほどシンガポールでの鮮明な記憶が甦る。広島市が原爆慰霊祭により世界各国から人を集めるなら、広島県は日本全国に太平洋戦争激戦地などで現地の宗教家と行う合同慰霊を呼びかけてはどうだろうか。それだけでなく、世界各地で多くの犠牲者が出る大災害時に被災者救援活動を実施してはどうだろうか。世界には広島県出身の移民の方々がいる。組んではいかがであろうか。
人は誰でも他の人の役に立ちたい気持ちがある。必要とされることは最高の喜びである。広島市における原爆慰霊祭に加えて、海外における合同慰霊と災害救援活動を併せて実施する時に「ヒロシマ」は平和へのメッセージとして普遍的な価値を持つことができると確信する。
広島県人としてこのような「ヒロシマ」の普遍的価値創造に参加できれば望外の喜びである。