ケララ州洪水被災者支援顛末記(2) – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

ケララ州洪水被災者支援顛末記(2)

AMDAグループ代表 菅波 茂

洪水被災者の診察をするシッダールタ医師

11月11日。午前中にトゥクトゥク(3輪自動車)で30分かかるマベリケラ町に向かった。スーチートラ・シッダールタ医師(アユルベーダ)とその仲間に会うためだった。始め彼女たちは被災地でアユルベーダ医学の無料診療を自主的に実施していた。毎日患者は60名ほどで、主な疾患は発熱、関節痛、皮膚疾患(長期間水に浸かっていたため)などであった。貧困地域の被災地のその後の状況視察を行った。1.2メートルからの高さの洪水がひいた後の家々に住民が戻り生活を再開していた。どこの家でも私たちの質問に親切に答えていただいた。先般の西日本集中豪雨被害と決定的に異なるのは被災した家具など家庭ごみが出されていないことだった。シッダルタ医師たちは「社会の役に立ちたい」との気持ちが強く、AMDAに参加したいという申し出があった。AMDAインド支部ケララ州マベリケラクラブの発足を提案した。クラブは3人で発足できる。活動も自由である。翌日に、訪問したカルナタカ州ウドゥピー在住のK.S.カマト・インド支部長から正式な同意を得た。

AMDAインド支部長カマト元教授(右)

実は、彼女はカマト支部長のカルナタカ州にあるマニパール大学アユルベーダ科教授の時の生徒だった方の繋がりで出会った。ケララ州はアユルベーダ治療の盛んな州である。カルナタカ州はケララ州のアラビア海沿いの北に接する州である。2004年のスマトラ沖地震津波の時に、ケララ州の東に位置しインド洋に沿ってあるタミル・ナドゥ州に被災者支援医療を実施した時にも、カマト教授の人脈のお世話になった。そのタミル・ナドゥ州の対岸にあるのがスリランカである。今回のケララ州の洪水被災者救援医療支援活動に関して、スリランカ支部長のサマラゲ医師も「災害発生時に救援活動を行う指示が本部からあったら、スリランカにもあるケララ州に通じる人脈を駆使して支援活動ができた」とのコメントだった。西日本集中豪雨被災者支援医療活動と共に同時並行で進めるべきだったと反省をした。将来的には南インド3州とスリランカを一つの文化圏として対応すべきと考えたい。
 

シッダールタ医師(左から二人目),父(右端)とその仲間

シッダールタ医師の父親は高等学校の校長だった。現在は引退している。家姓であるシッダルタの由来について説明してくれた。ご存知のようにシッダルタはお釈迦様の幼少時の名前である。アショカ王の時には現在のビハール州からケララ州まで仏教国だった。現在も街には多くの仏像が残っている。仏教徒はその後にヒンズー教に改宗させられた。家性のシッダルタは当時の名残であると。当時は隣のタミル・ナドゥ地域も仏教国であり、対岸にあるスリランカにアショカ王の仏教ミッションが派遣されたことも容易に理解できた。

ちなみに、AMDA本部に勤務するネパール人スタッフであるアルチャナ・シュレスタ・ジョシ氏はヒンズー教徒であるが、嫁ぐ前のシュレスタ家の葬式の最後には何故か仏教のお坊様がお経をあげていた。彼女が父にその理由を聞くと、シュレスタ家はもともと仏教徒であったが、所属するマッラ王朝がグルカ族に滅ぼされた時に、ヒンズー教に改宗を強いられた。仏教徒であった名残として、葬式の最後は仏教のお坊さんが務めていると教えられたそうである。ちなみに、ネパール医師会長のシュレスタ医師は仏教徒である。

午後4時30分にケララ州洪水緊急医療支援活動の際ご協力いただいたセワ・バラティのチェンガヌール支部事務局長であるヨゲッシュ氏に支部の建物でお会いした。今回の災害救援活動中における甚大な支援を受けた感謝と今後の活動の協力体制の構築のためだった。セワ・バラティの親団体がRSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh)で、設立者はケーシャヴ・バリラーム・へ―ドゲワール医師。1925年に5人の仲間と共に団体を立ち上げている。セワ・バラティのスローガンは「人々に尽くし、国に尽くす」である。全国津々浦々にまでネットワークが広がって活動をしている。ちなみに、AMDAが中長期で活動しているブッダガヤにも会員がいる。基本は各種類の職業から構成されるボランティア活動である。その迅速な動きには目を見張るスピードがある。ちなみに、支部の2階の広間に案内してくれた。そこには医薬品が山のように積まれていた。今回の洪水被災者救援医療のためにインド全国の支部から寄付された医薬品だった。ただし、期限切れの医薬品はきちんと選別して廃棄されていた。












AMDAがセワ・バラティのチェンガヌール支部と災害医療に関するMOUを締結すれば、インド全国どこの災害支援に関してもネットワークを活用するのに有効であるとの説明だった。いやはや、すごい団体があるものだと感動した次第である。MOUの協定に関してはニューデリにあるセワ・バラティ本部と協議することにした。

前述したが、セワ・バラティのバックはヒンズー教至上主義のRSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh)である。Swami Vivekanandaグループとは友好関係にあるとのこと。現在のインド連邦首相のモディ氏はこのグループに所属している。しかし、人道支援と政治とは別であるとの説明だった。

台湾に慈濟(ツーチー)という仏教団体がある。基本は法華経である。そのボランティア活動が尋常ではない。世界各地に支部があり、世界の災害被災地で活躍している。日本にも支部がある。災害時には何千人というボランティアが動員される。ボランティアには階級制度がある。ボランティア活動に応じて階級が昇進する制度である。台中には大規模な病院も有している。自己完結性の団体である。私たちは欧米のNGOのみに注目しているがアジアにも大規模なボランティア団体があることも注目しても良いのではないだろうか。
 

ウドゥピー駅に向かう寝台列車

午後5時30分発のマンガロール行きの寝台列車に飛び乗って、次の目的地であるカルナタカ州のウドゥピー駅に向かった。約12時間の旅である。昭和40年に大学受験のために夜行寝台列車「瀬戸」号で上京したことを懐かしく思い出した。ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。列車の音は万国共通である。車内で販売されていた鶏肉の煮つけの弁当を食べて、チャイ(ミルクティ)を飲んだ。私たちの向かい側の席にインド人家族が乗り合わせた。家庭で用意した食事を持ち込んで楽しんでいた。

イギリス統治時代にインドの鉄道網を故意に複雑にしたと聞いている。分割して統治するのが植民地経営の鉄則である。ただ、カルナタカ州など南部インドのブラーマン階級は倫理道徳が非常に高いので官僚として採用したとも聞いている。事実、AMDAインド支部にはカマト・インド支部長を含めてブラーマン階級の医師たちが多いが、その高い倫理道徳には尊敬の念しかない。聴けば、家族ぐるみで、朝夕と家庭に祭ってある神々に向かって曼荼羅を唱えて瞑想するのが日課とのことである。