小規模多機能ホームぶどうの家真備 津田 由起子
ぶどうの家真備を心配しご支援くださっている全ての皆様に感謝いたします。真備町の大半の住宅や商業施設が水没した平成30年7月7日、私たちは薗小学校に避難し、倉敷市の配慮で小学校横の公民館分館を避難所の一部として、10月28日までほぼ4か月を過ごしました。雨の中、次々に登録利用者さんやご家族を救出し避難した時には、こんなに長くなるとは思ってもいませんでした。発災直後から、たくさんの方に助けていただき今私たちは真備の地で踏ん張ることができています。本来なら、お一人お一人にご報告とお礼に伺うべきですが、まだまだ再建復興には遠い現状で、このような形でのお礼となりますこと、お許しください。
◆地域や普段のつながりの力
避難所での数日間は、断水のため、トイレのたびにタンクに水を入れる作業が必要でした。私たちに代わって、一日中小学校の給水所まで水を汲みに行き、重たいポリタンクをトイレまで運んでくださったのは、薗公民館分館の管理組合の方々でした。夜間の重労働は肉体的にもきつい作業だったろうと思います。薗地区の皆様の支えがあったので私たちは無事過ごすことができました。衛生面では、避難所には高齢者が介護を受けながら入れる入浴設備がありませんでした。そこで、総社市の小規模多機能れんげの方が、発災翌日の8日に大型車でお年寄りと職員をれんげまで送迎して、お風呂を貸してくださいました。また、移動ネット岡山の横山さんが中心となり近隣の福祉事業所や福祉有償運送の仲間に声をかけてくださり、総社市の無料開放している温泉施設に送迎してくださいました。さらに、デベロさんは茨城県水戸市から車を運転してきてくださり、移動入浴車を無料で貸し出して下さいました。この方々のおかげで、暑い夏の避難生活でしたが、入浴をすることができました。素早い行動力に感謝します。そのほか、たくさんの皆さん方が避難所を支えるスタッフ、利用者の自宅やぶどうの家真備の片づけを手伝ってくださいました。
◆アセスメントの意味
アセスメントについて、被災直後から当分の間、毎日多数のアセスメントを受けましたが、毎回ほぼ同じ内容のご質問でしたので、疲れていた私には結構な負担で、なぜ専門職集団で連携できないのか不思議でした。また、それがどのように活かされたのかわからないことも多々ありました。アセスメントは支援のために必要な時に必要な情報を得るべきだと、支援される立場になって痛感しました。混乱し疲弊している時に困っていることを尋ねられても、自分で整理し言語化することはできませんでした。そんな中、AMDAは災害支援のプロです。難波さんが約20分の初回面接で、「わかりました。明日からこの人を職員と同じように使ってください」と職員を派遣してくださったのです。そして、それは押し付けではなく、私たちの意志を十分確認しながらの支援プランでした。そしてAMDA山河さんが、8月の夜勤と宿直を十数回もしてくださりお年寄りと一緒に温泉に入ったりしてくださいました。
山河さんも災害支援のプロで、ご自身のこれまでの活動の中で持っている様々な資源を私たちに結び付けてくれました。必ず「こんな支援ができる人たちですが、引き合わせましょうか?」と意思を丁寧に確認してくださいました。AMDAがすばらしいのは引き際で、当事者の自立のために少し厳しいくらいの状況で手を引く代わりに、別の形の支援をされました。自立のための引き算の支援は小規模多機能の支援に通じるところがあり、自分自身が支援を受ける立場になってそのことの意味を実感できました。
AMDAの山河さんがつないでくださった団体の中で、今でもかかわり続けてくださっている中に「つながりさん」があります。彼らは泥だしの時からはじまり今は地域の方にお渡しする支援物資の服や食器などを提供してくださっています。時には今年は職員が被災し人手不足で、開催すらためらっていた、船穂の事業所で毎年行っている秋祭りの手伝いもしてくれました。丁寧な仕事でじっくりと私たちを応援し続けてくれています。心強い存在です。
事業所が被災し薗分館で避難生活をすることになりましたが、ここまで避難所での生活が長期化しているのは、ご利用者の自宅が全壊し帰るべき家がない方がおられるからです。当初13人の方が避難していましたが、ぶどうの家は平時には月に2から3日程度の泊りで自宅への訪問が中心だったため、職員も被災し出勤できる人数も少なく、連続30日も泊りが続くという状況は非常事態でした。さらに、いつもは自宅で過ごしている方々なので、環境が違うと夜間ゆっくり眠ることができない方もありました。1時間に3回以上トイレに行かれたり、3時間おきに体位変換の必要な方もおられました。私と管理者が交代で仮眠しながら夜勤を行いましたが、昼も休めることはなく再建に向けてのことや、水につかった事業所の片づけなどの力仕事もあり、正直くたくたでした。そんな時に、夜勤をする、と強く申し出て下さった他県の方のご協力も頂きました。
◆夜勤というしごとと仲間
夜勤をお願いするということについて、介護の現場を知らない方に理解していただくのは難しかったようで、「夜勤という大変な時間帯を外部の者に依頼するとはいかがなものか」という声も聞こえてきました。しかし、そんな中で私たちの叫びを最も理解してくださったのは、現場の介護職員の仲間でした。全国の小規模多機能の方々、倉敷市内の小規模多機能の仲間、そして日本介護福祉士会の方々でした。倉敷の仲間、介護福祉士会のメンバーは今でも夜勤支援をしてくださっています。昼間と違って夜間は就寝している時間が長く、排泄介助が中心でほぼ初対面でも介護の基本的技術があれば対応できるということを、よくわかってくださっています。現場の方が私たちを応援してくださっているということを、心強く思います。そして、この災害があったから、こんなにも多くの現場の方との出会いがあったのだと思えるのです。
中国地区をはじめ小規模多機能の方々には泥だしから片付けと暑い中、たくさんの手伝ってくださいました。現場の仲間がいたから私たちも頑張れました。
現場ということでは、避難所でも多くの市の職員の方と出会いました。「公平と前例」を重んじる倉敷市にあって、災害時の避難という前例のない事態の中で様々な摩擦がありました。全ての人にそれぞれに必要なことを行うことが公平と考える私とは意見の違いがありました。そんな状況でも、日々ぶどうの家のお年寄りや一緒に楽しそうにしている職員と接するうちに、気持ちと気持ちの触れ合う時がありました。現場を理解しようとしてくださり、市の中でできることを模索してくださいました。市の職員としては本当に大変だったことと察します。現場を知ってもらう。ともに考えるという姿勢を今後も大切にしようと思います。理解しあうことが何においても大切だと学びました。
◆関係づくりと継続性
今回ほど、これまでのつながりに感謝したことはありません。いつもお世話になっている先生方にご無理をお願いすることもありましたが、引き受けてくださいました。避難所から出るために、移転先を探しましたが簡単には見つかりませんでした。薗地区の方々や職員たちが空き家情報を集めてくれ、片っ端から回りましたが、なかなか良い物件がありませんでした。船穂の事業所に行くという選択肢もないわけではありませんでしたが、私たちの目の前にいる方々は真備で暮らしており、それを支えぬくにはここ(真備)に拠点を置く必要がありました。発災翌月の8月には、当初避難していた方も次々にご自宅に帰ることができたので、避難所からの訪問実績も500回を超えていました。当初は道にごみがあふれていて、家の周辺を自由に歩き回るような方に、自宅へ帰ってもらうことができなかったのです。そんな方々が、道が片付いたので家に帰り、その方々を支えるために、避難所から訪問をしたのです。追い詰められた私は、手狭なうえに水周りのない建物への移動を考えていましたが、感染症の増える冬に向かう時期に、そのような環境にお年寄りとともに移動することを決断しかねていました。そんな時に手を差し伸べてくださった医師らのおかげで、ももたろう基金とピースウインズジャパンのご支援を受け、水没していた今の建物を改修していただくことができ10月28日避難所を出て今の建物に移ることができました。
事業所が水没したことで、片づけに必要な物資を提供してくださったり再建のために様々な情報をくださり、最短で立て直すことができるよう、尽力してくださった方々のおかげで、今の建物に移転することが決まった時にも驚くほどの速さで修理改修がかないました。そして、元の場所にも来春には戻れる予定です。仮設に移れ、事業所のあった箭田に戻れるという先が見えた安堵感は大きく、精神的なゆとりもできてきました。
◆利用者や利用者家族、職員の力
ある意味私のわがままで、被災した時から今日まで突っ走っているのかもしれません。そんな私と一緒に走ってくれている職員に感謝します。避難した当日から、体育館などの避難所で過ごしにくい認知症の方など、ぶどうの家の利用者以外の人も受け入れたり、避難直後にあちらこちらに避難している登録利用者を、「みんなまとめてここでみる。」と言ったり、大変になることばかりしていましたが、そのことについて職員が「私たちはぶどうの家の理念を全うするだけだから、当たり前のことです」と言ってくれました。ぶどうの家をやってきてよかったと思いました。そして、この職員と一緒に、利用者さんたちの望む暮らしを守っていこうと決意しました。
登録利用者さんのご家族も私たちを支えて下さっています。ご自身が被災されている方も含め泥出し片付け解体にとどまらず、納屋を提供してくださったり物心両面から私たちを支えてくださっています。被災から避難所を出るまでの間に、何度か家族会を開きましたが、助けあおうというお気持ちをいただき、いつも心強く思います。
◆小規模多機能型居宅介護事業所として
今回の経験から、どんな状況や環境でも小規模多機能型居宅介護はできると実感しました。私たちは、暮らしや生活を支える専門職ですから、自立支援が基本にあり、今回もそれは変わりませんでした。たとえ年をとっても避難者でも、できることは自分たちでしていただきます。その結果ご利用者さんは避難所での生活でも次々にできることが増え、自治会も作り自分たちの生活を快適にするための決まりも作りました。また、体調を整えることも介護の基本ですから避難翌日から口腔ケアと簡単な体操を行いました。避難当日は13人の方が避難していましたが、大半の方はご自宅や仮設住宅に戻り、災害前と同じように生活されています。
今回「他の避難所でも認知症状などで対応に困る方があれば、お連れしてください。私たちが対応します」と発信したのも地域密着型サービスとして自然なことでした。
突飛な考えですが、災害時、一時避難ができることや生活を奪うことになってしまう自宅に戻れない片道切符の避難ではなく、現地の小規模多機能型居宅介護と行政、支援団体の方が協力して支えることで、また自宅や地域に戻ることができる避難という仕組みもできるのではないかと、この度の経験から思いました。
今、泊まり続けている5名の方は自宅が水没し戻るところがありません。ご家族がおられる方もありますが、「年齢的にも自分で1,000万円以上かけて、自宅を立て直すことは難しい」と言われます。今は、この方々のように思う人が集まって助け合いながら暮らせる共同住宅を建てることができないかと、模索しています。1階はフリースペースにして塾やコンビニ、駐車場、集会室のようにしてだれもが自由に使えます。住まいは2階3階にして、再び水が来ても大丈夫な建物にします。近所の方々も避難の必要があればそこに避難します。そうすれば体育館のような避難所で過ごすことが困難な方も、災害があっても自宅で過ごせます。日ごろからお互い様の精神で助け合うコミュニティがあれば、安心です。そして、建物も耐震構造がしっかりしていて水害にも地震にも安全となれば、真備は日本で一番安全で安心な町になります。新たな出会いにも感謝です。住まいについて考えていますが、その中身は暮らしやまちづくりになっていきそうです。
◆仮設事業所
できることは自分で行う
現在過ごしている建物は、広いホールのような建物なので、その一部を使って10月28日から支援物資を置いています。毎日誰かしらやってきて多い日は30人ほどの方が来られます。物資を取りにというよりは話をしに来られている方もあります。今後は来られた方が、自分たちで調理をして、それを食べながら、おしゃべりする場所として使ってもらおうと考えています。この建物を使って、このようにできることはありがたいことです。そして、このための食材はグリーンコープさんが提供してくださいます。グリーンコープさんは、仮設に移り調理することができるようになった私たちのために新鮮な野菜を中心に食材を無料で提供してくださっています。年が明けたらこの部分も完全に自立したいと考えています。グリーンコープさんとは、今後地域の方と一緒に餅つきをしたり、お節料理を作ることをする予定です。
◆社協や近隣の仲間との協働・連携
様々な方々が、これからの真備町にとって必要だと思うことをしてくださっています。必然的にその内容は同じようなことが重なっています。真備町には被災前から福祉介護事業所の緩やかなつながりの会があり、この連絡会があったことで素早い動きができているように思います。自らの組織のためにではなく真備町民のために、住民、福祉事業者、一般企業、行政の枠を越え、みんなでよりよい真備町を目指したいと願います。
今ぶどうの家真備は仮設に移り、次のステップに進んでいます。事業所として一日も早く自立したいと職員一丸となって取り組んでいます。そして、真備で暮らすと決めた方々とよりよい真備町をみんなで作っていきたいと思います。復興にはまだまだ時間が必要です。私も愚痴を言いたくなる時があるかもしれません。でも、必ず前進します。皆様どうぞ今後ともぶどうの家真備の前進を見守り応援してください。今後ともよろしくお願い致します。
皆様に一日も早くお礼をと思いながら、なかなか筆を執ることができませんでした。こんなにも時間がたってしまったことをお詫びいたします。そして、ここに書ききれないほど多くの方に助けていただきました。全ての方に感謝申し上げます。