AMDAグループ代表 菅波 茂
堤が完全に流されてしまった決壊箇所
2018年8月29日。ミャンマー中部に位置するKyone Taw Su Village, Yay Tar Shay Township, Taungoo District, Eastern Bago DivisionにおいてSwaChaungダムからあふれ出した水がダムの堤の上部から土を次々と押し流して行った。その水はみるみる大激流となり村々を襲った。死者こそ出なかったものの被災家屋は180件である。AMDAとして被災者にどのような支援ができるのか調査が必要だった。ヤンゴン市内からの距離は約231 kmで時間にして6時間ほどである。
日本の現地法人Minoru-Keiwa Myanmar Co.,Ltdに所属するMyint Myint Mon氏にその任に当たってもらった。9月8日と9月20日のそれぞれ日帰りの合計2日間にわたり被災地の調査をしてもらった。被災地を管理している軍からAMDAに関する書類の提出を求められた。
1996年から現在に至るまでのAMDAの活動記録を提出して許可が得られた。日本人はアウンサンスーチ氏の穏やかなイメージで誤解していると思うが、ミャンマーは今でも場所によってはまだまだ武力勢力と軍との間に戦闘状況が発生している現状を忘れてはいけない。ロヒンギャ過激派との戦闘は最近の出来事である。アウンサン将軍による英国からの独立以後、英国側であった少数民族による独立運動と諸外国からの干渉が続いている。軍の存在と努力がなければ、ミャンマーは既にバラバラになっていたと言っても過言ではない。
船で進む様子
道路は途中から寸断され、四輪車による通行が不能になり、オートバイと船で被災した村をようやく訪れることができた。村に入ると、犬や豚などの動物が溺れて死んでおり、異様な死臭が漂っていたとのこと。私たちが2011年3月11日に発生した東日本大震災被災者医療支援活動のために釜石市から大槌町に入る道すがら同じような異様な死臭が漂っていた。それは津波によって打ち上げられた大量の魚の蛋白質が腐敗したものだった。
集まる物資
村の人たちは浸水した家の前に小さな仮設の小屋を建てて暮らしていた。驚いたことに、被災を免れた周囲の村の人たちから、少しずつであるが続々と生活に必要な物質がビニール袋に包まれてこの被災した村の人たちに届けられていた。相互扶助は本当に村々に生きている社会慣習だと感動をした。この相互扶助が国を超えて、日本からミャンマーの被災者に差し伸べられても何ら不思議なことではない。ちなみに、ミャンマーでは道端に水を入れた土器製のツボが置かれている。これは暑い日差しのもとで喉が渇いた人たちがいつでも水を飲めるようにするためである。素焼きであるために水は冷たい。私の知っている限りでは、この飲料水の接待習慣は東南アジアや南西アジアの国々ではミャンマーだけである。
2008年にミャンマーを襲った台風では被災者は仏教寺院か親戚に身を寄せていた。仏教寺院が避難所の役割を果たしていたが、今回は仏教寺院も洪水の影響を受けて、その役割を果たせなかった。2018年8月のロンボク島の地震ではモスクも破壊か崩れやすくて避難所の役割をはたしていなかった。いずれにしろ、アジアでは宗教施設が災害時に大きな役割を果たすことが日本とは大きな違いである。2003年に米国を襲ったハリケーン「カトリーナ」で避難所の役割を担ったのはキリスト教会の宿泊所とホテルだったことを思い出した。ヒューストンの巨大なスポーツミュージアムに収容されていた数万人の被災者が2週間で半数になったことも。
この村にミャンマーの医療チームが巡回診療で訪れたが、村の寺院に1泊して引き上げている。理由を聞いてなるほどと思った。村は毎年洪水に襲われており、今回も村人は早期に高地に脱出したために死者は一人もださなかったとのことである。教訓が生きており、不幸中の幸いである。
AMDAとして今回は特に医療支援活動をする必要がないと判断した。調査チームを数度にわたりを派遣していただいた北川昌昭氏に心から感謝したい。