2018年1月17日、18日にAMDAグループ代表兼理事長の菅波がロヒンギャ難民キャンプの視察を行いました。
以下、菅波の手記を掲載いたします。
2018年1月17日にバングラデッシュのコックスバザール県にあるミャンマーから逃れているロヒンギャ難民のキャンプを訪れた。世界でも有数の140kmの長さをほこる美しいビーチから山間に入った場所にロヒンギャ難民キャンプがある。見渡すかぎりの山々に過密な住居群が広がっている。なお、難民キャンプからコックスバザールに向かう車両の乗客は軍による検問所でロヒンギャ難民か否か厳しいチェックを受けている。現地の人たちの職を奪っているからである。現実的には難民が首都のダッカまで進出していると聞いた。元来がベンガル出身だから言葉に大きな問題はない。しかも同じイスラム教徒でもある。
最初に難民となったのは1944年とのこと。AMDAが医療支援に入ったのは1992年である。昨日今日の話ではない問題の根の深さがある。ベンガル地域から移住したロヒンギャの定住していたラカイン州は仏教遺跡が多いところとしても有名な地域である。スリランカ経由の小乗仏教でも、中国経由の大乗仏教でもなく、インドのブッダガヤから直接に伝わった仏教である。お釈迦様がそこに隣人として存在するような雰囲気があるのはそのためだろうか。知人のダッカ大学歴史学の教授はロヒンギャが森の民であったミャンマーの人たちに農耕を教えたのに嘆いておられた。歴史的事実か否かはわからない。欧米やイスラムの国々がアウンサンスーチ女史にノーベル平和賞を返還せよと騒いでいるのは短絡すぎる。英国による200年間の分割と統治による植民地政策の是非も加味しなければいけない。
国連難民高等弁務官や各国のNGOが提供している粗末な住居が整然と建てられている。飲料水を確保するポンプは最低200メートルの打ち込みがいる。現状では十分機能している。問題はトイレである。当初は10世帯(1世帯が5~6人)ごとに直径75cmで深さ1mの簡易トイレが数個設置された。すぐに一杯となり土をかぶせて終了している。現在は直径1mで深さ5mの管を2ユニットにして10世帯用に設置する予定であるが、当初のトイレ設置に予算を使ってしまっている現状がある。NGOの予算では無理である。国家予算の支援頼みである。4月か5月に始まる雨季では衛生上の問題が心配である。
食料は国連機関による登録を前提の配給制である。道端には駄菓子、飲料水、果物に加えて生活用品などを売っている大小さまざまなお店がある。多くは地元の人たちによる商売である。現金1万円以下の小資本で地元の人から購入した野菜や干物などを広げたビニールの上で細々と売っている難民の人も多い。私もあいさつ代わりに50円で野菜を買ったら、私の周りにあっという間に黒山の人だかりができた。AMDA診療所の横の道端の椅子に腰を掛けていたらほとんどの難民の人たちが私をじっと見つめて通りすぎる。難民キャンプは帰国を前提としている大原則がある。定着をするような前提の職業訓練などは行わない。ただし、教育は必要ということで、初等教育の学校が建てられていると聞いた。難民の人たちはすることがない。社会から必要とされている状況もない。ただただ存在するだけである。禁固刑に等しい。大変な心理的ストレスである。無目的に道路上を歩き回っているのが現状である。私だったら数ケ月も精神が持たないだろう。
次回はAMDAの難民支援医療活動について紹介したい。