AMDA インドネシア支部長、タンラ教授に 旭日中綬章 受賞 – AMDA(アムダ)
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AMDA インドネシア支部長、タンラ教授に 旭日中綬章 受賞

AMDA 理事 難波 妙

令和2年秋の叙勲で、AMDAインドネシア支部長、アンディ・フスニ・タンラ教授に、日本・インドネシア間の学術交流の促進及び友好親善に寄与したとして旭日中綬章が贈られました。

 

外務大臣表彰をうけるタンラご夫妻

タンラ教授(1943年1月29日生まれ)は、広島大学で麻酔科の博士号を取得。その後、故郷のインドネシア、スラウェシ島マカッサルに戻り、母校、ハッサヌディン大学で麻酔科教授として教鞭をとられ、その後、麻酔学科長、大学院学長に就任、現在は同大学名誉教授。 AMDAインドネシア支部長として、インドネシア・フローレス島地震と津波災害緊急医療救援(1992)に始まり、以後スマトラ島地震(2回 1994、1995)、スラウェシ島地震(1996)、東ティモール難民(1999)、アフガニスタン難民(2002)、ジャカルタ近郊[pagebreak]洪水(2002)、イラン南東部地震(2003)、スマトラ島大津波(2004)等、数多くの緊急救援活動を統括しました。2004年には、人道道支援活動、日本との親善・文化交流への功績が認められ、日本の外務大臣表彰もうけられています。

AMDAはタンラ教授のこれまでの業績を誇りとし、インドネシアと日本の懸け橋となった足跡を顧みて寄稿していただきました。

―それは、一枚のはがきから始まった―

森尾教授(右)とともに

インドネシア、スラウェシ島出身の私は、1974年8月、インドネシア人学生と日本人学生とのセミナーに出席のため、広島大学に訪れた時、当時の学長、井島宗一教授から、広島大学で勉強したいのであれば、私に手紙を書きなさいと名刺を渡されました。そして、たった3文、「教授、もう卒業しました。 以前の約束はどうですか? 本当に広島で勉強する事ができますか?」と書いたはがきを出しました。待ちに待った返事は、1975年の終わりに届きました。「広島大学で1年半、研究生として受け入れる」と。そして念願がかない1976年3月2日、私は広島に戻ることができました。しかしながら、1年半の奨学金で、1年間は日本語の勉強に充てたため、残りの6ヶ月で麻酔を専門に勉強するのは時間的に不可能と気づきました。そこで私は、担当教授である森尾道夫教授に、2、3年の奨学金の延長をお願いしました。 当時、日本全国で、外国人が専門的な教育を受ける例はありませんでした。 しかし、私の教授が粘り強く出した答えは、一つだけ。つまり、博士課程を受験することでした。周囲の協力もあり、合格し、すぐに4年間の奨学金をいただきました。そして、1981年広島大学医学部麻酔科で博士号を取得することができました。

―日本とインドネシアに共通する文化と次世代への希望―

子どもたちとともに

日本で学ぶ間、最も印象に残ったのは日本の文化でした。 何と言っても、非常にイスラム的だと思います。日本人はとても素晴らしく、正直で、規律があり、礼儀正しく、清潔で勤勉です。引退した今でも私には日本の習慣が残り、晴耕雨読の日々をすごしています。

広島大学を卒業後、スラウェシ島にあるハッサヌディン大学で麻酔科医として臨床とともに大学教育にも従事しました。医療を学ぶ学生たちに、私はこの日本のすばらしさをつたえたく、2005年から8年間、研修医を広島の尾道病院に派遣する短期プログラムを行いました。この病院の部長は偶然なことに私が広島大学麻酔科で勉強していたころの大切な友人でした。三か月ごとに送った研修医は合計76人になりました。加えて多くの日本の医師をインドネシアに招待し、交流を重ねました。今、日本で学んだ研修医たちが医師となり、インドネシアの多くの医療現場で活躍しているのは、大きな私の喜びでもあり、まさに日本の方々のご尽力の賜物と感謝しています。

―AMDAとの出会いー

スマトラ島アチェにて

1981年広島大学を卒業した年に私は、JR岡山駅でAMDAの菅波代表とお会いしました。菅波代表が学生時代に立ち上げたAMSA(アジア医学生連絡協議会)の医学生の紹介でした。その時に菅波代表からAMDAインドネシア支部長をたのまれ、それ以来、AMDAのインドネシアにおける災害支援や医療支援活動を統括し、その他の海外の活動にも参加しています。2004年のスマトラ島大津波の際には、最も被害の大きかったスマトラ島アチェに入りました。想定外の天災に加え、政府と「自由アチェ運動」との独立紛争地域でしたが、スラウェシ島の部族と歴史的に姻戚関係にあったこともあり、AMDAインターナショナルの11の支部とAMSAの医学生200名あまりも一緒に緊急医療支援活動を展開しました。当時、日本からも大きな支援を受けたことを忘れてはいませんでしたので、2011年の東日本大震災の際には私も宮城県、岩手県に駆け付け、菅波代表の下でAMDAが活動する被災地を訪問しました。帰国後すぐに、地元の人たちに被災状況を伝えるとともに寄付を募るイベントを開催し、参加者と一日も早い復興を祈りました。

―旭日中綬章を受けてー

このような栄誉を受けるとは、夢にも思っていませんでした。大変名誉なことで、今も興奮しています。私の知る限り、このような日本の名誉をうけるのは、高官、大使、総領事であるからです。私の日本との関係は友情を通してであり、今でも多くの日本の友人と連絡を取り合っています。この栄誉のことを報告すると、皆さんとても喜んでくれました。しかし、私一人の力では何もできませんでした。これは私を長年にわたって友として、時には家族として支えてくれた菅波代表はじめ日本の方々のお蔭だと思っています。私は、日本への深い感謝とともに、この長年にわたってともに築いてきた信頼関係が次世代へと繋がることを今、切に願っています。