名瀬徳洲会病院 医師 古賀 翔馬
旅をする中でいくつか忘れ得ぬ光景がある。未知の国へ移動した瞬間に飛び込んでくる景色、早起きの対価には勿体ない程の暁天の空、陳腐な想像をあざ笑うかのような雄大な世界遺産。飛行機でビクトリア湖を超え、ルワンダへ入った瞬間に入ってきたその光景は、まさしくその一つであった。
”千の丘の国” ルワンダ。この国の別称である。Hotel Rwandaという映画を見た方であれば、舞台となった”Hôtel des Mille Collines”というホテル名を覚えているかもしれない。この”Mille Collines”こそが『千の丘』という意味である。
その名に違わず、ビクトリア湖を越えた先にはこれまでの草原からがらりと景色が変わり、無数の丘が広がる。その丘の一つ一つに余すことなく棚田が刻まれており、国土と資源の乏しい中で少しでも多くの土地を創り出すための工夫と、真面目な国民性が垣間見られるようである。地平線を見せることなくどこまでも続く棚田と、その合間に広がる田園と茶畑はどこか日本を彷彿とさせるものがある。千の丘を周囲に臨みながら、その丘の一つの頂上にある空港へ、機体は降り立つ。丘の上の空港、というのも初めての経験である。
ところでルワンダについてどのようなイメージを持っているだろうか。おそらく一番初めに頭に浮かぶことは『1994年に起きたフツ族によるツチ族のジェノサイド』であろう。ところが「ルワンダ」をインターネットで調べると『アフリカの奇跡』『アフリカのシンガポール』『アフリカ随一のICT立国』『アフリカ一治安が良く、汚職が少ない』というフレーズが並ぶ。
実際に空港から街に向かう中で、その実態に驚くことになる。まず道路にはゴミ1つ落ちていない。首都から国の端の方に至るまで、全土において、である。実のところ、いわゆる「途上国」と呼ばれる国で日本と同じくらい綺麗な国を見たのは初めてであり、大きな驚きであった。月に2回、日曜日にはノーマイカーデーなるものが開催され、朝から大勢の人がランニングを行っている。明らかに他の国とは一線を画していた。
前置きはこのくらいにして、そろそろ本題へ入ることにする。
今回ルワンダに19日間滞在する中で、AMDAの健診事業に参加させていただいた。Kigali(キガリ)、Miyove(ミヨベ)、Kigabagaba(キバガバガ)というルワンダの3つの地域の小学校や幼稚園を周り、健診を行うといったものである。それぞれの地域では住民の生活環境も、経済状況も、医療や教育へのアクセスも異なる。
健診では身長・体重・AC等の他、頭のてっぺんから足の先まで子どもの全身を一通り診察し、記録する。そして最後に全校生徒を集め、歯ブラシを配って歯磨きの指導を行う。
Kigali(キガリ)はこの国の首都である。ウルチョ・ムイーザ学園という私学に通う小学生は溌剌としており、キニヤルワンダ語、英語、そして日本語をも話す。この国の将来を担っていく子も出てくるのだろうなという期待を抱かせるような学校である。比較的裕福な子も多く、中にはobesityな子もいる。
Miyove(ミヨベ)という地域にある学校は対照的である。ここはルワンダの最貧困地域の一つであり、わずか2年前までは「子どもたちの顔には表情がなかった」地域という。2年前にマリールイズ永遠瑠氏が代表を務めるNPO法人「ルワンダの教育を考える会」がfeeding projectを開始し、今では子どもたちの顔に笑顔が戻り、サッカーや遊具で遊ぶ様子が見られる。しかしながら、国は違えど明らかに年齢に比して身体は小さく、低栄養のため髪の毛が生えていない子も少なくない。
そして今回最も考えさせられたのは3つ目のKigabagaba(キバガバガ)という地域での健診についてである。
Kigabagabaは首都キガリのウルチョ・ムイーザ学園から車で10分程の場所に位置しており、経済レベルで言うと、KigaliとMiyoveの間に位置する。しかしながらKigabagabaに住む家庭はその日暮らしのシングルマザーの家庭が多く、経済状況は決して明るいとは言えない。
「お金がなくて保険に入れていないので病院には行けません。」
健診で問題が見つかり、後日の病院の受診を指示した時に返ってくるこの答えに何ともやるせない気持ちになる。中には、3ヶ月前に大腿骨頸部骨折を起こしたが病院に行くことができず、疼痛を抱えたまま過ごし続ける13歳の女の子もいた。目覚ましい速度で発展する国の裏には、歴史が大きく影を落としている地域がまだあるのだ。いかに医師として問題を拾い上げることができたとしても、つまる所治療ができないのであればそれはデータの収集に過ぎず、患者は「悪い部分を知った」だけで終わってしまう。目の前の患者に何も手助けすることができないわだかまりが残り、そしてもしこう言った地域で医療活動をするのであれば、そういった問題まで含めて対処できるだけのものを持ってくる必要があるのだと強く感じた。
こうした背景にあるのは、やはり1994年のジェノサイドなのだ。
その他、保健省やMiyove市長表敬、地域の基盤となっている大きな教会、保健所等や国際的な保健機関などを、ルワンダの産婦人科医Dr. Calliopeと共に訪問した。彼が取り組んでいるのは今回行ったような健診事業、そして母子保健事業の確立である。今、まだ医療や公衆衛生が行き届いているとは言い難いこの国で何かを変えようと思った時、大切なのは孤軍奮闘することだけではなく、様々な機関と協力していくことであると学んだ。また、今回同行させていただいた AMDAの先輩方のように、自身に実力がなければ想いだけではできないことを痛感した。そしてその国の背景にある歴史と人々の環境を理解しないことには、一方的な支援でしかないのである。
カリオペ医師とともに
この1週間を通して、途上国で医療活動をする先輩医師の活動を目の当たりにし、より一層自分が目指す方向性が見えてきたように思う。まだまだ未熟な身である。今後小児外科医としてこの地に戻って来れるだけのものを身につけるべく、日本で研鑽を積みたいと思う。