AMDAグループ代表 菅波 茂
CRRとの調印式
AMDAは、1992年と同様に、2017年10月からバングラデッシュのコックスバザールに難民としているロヒンギャの人たちを支援してきている。一方、ミャンマーのラカイン州には仏教徒ヒンズー教徒そしてイスラム教徒などの国内避難民がいることも事実である。
2018年10月。ミャンマー連邦ラカイン州の州都であるシットウエイで、CRR(ラカイン復興委員会)と国内避難民となっている仏教徒に対する医療支援のMOUを締結することを決めた。内容は1)仏教徒の国内避難民のキャンプにCRRが所有しているヘルスポストへの助産師の派遣と2)ヘルスポスト内の医療設備の整備に加えて3)キャンプ内で出産する母と子の支援の3点である。その支援に対しての義務は1)助産師の毎月の活動報告、2)CRR事務局長からの3ケ月ごとのメッセージに加えて3)キャンプ内で出産した親子の報告である。まずはCRRを現地パートナーとしてミャンマー連邦国内避難民への支援を広げたい。ちなみに、CRRはロヒンギャ難民と同じ根源から派生しているラカイン州の仏教徒であるミャンマー人に対して住居、食糧、福祉などの支援をしている団体である。
欧米視点の国際的な報道とはかなり異なった現地状況があると思っている。この支援活動を通じて、従来の報道だけでは分からなかったことが徐々に明らかになると考えている。
今回の難民問題や国内避難民の発生場所となっているラカイン州に関する説明である。
参考になるのはラカイン州議会の構成である。総数が46席。ANP(アラカン国民党)が19席、政府軍が16席、アウンサン・スーチ―氏のMLD(国民民主連盟)が8席、ティン・チョウ前大統領のUSDP(連邦団結発展党)が3席である。インド、バングラデッシュそしてミャンマーの国境地帯には武装勢力として活動するアラカン軍(2009年に設立、兵力1万人弱)が、私たちが訪問した、数日前にも政府軍と衝突している。アウサン・スーチー国家顧問の提唱する政府との和解に応じていない。私たちがキャンプを訪問した時に、CRRのロゴが印刷された黄色のシャツとロンジー姿でなければ、警察の検問でストップされたのは確実である。質問をされたら英語で「マンダレーからきた中国人」と答えるように助言されたのも一興であった。現在のミャンマーと中国との国際関係の象徴だった。それぞれの警察署が厳重に金網で防御されているのも印象的だった。訪問先はインド洋に面したMaung Taw Township, Ya Thea Taung Tounship, Bu Tee Taung Townshipの3ケ所だった。
バングラデッシュのコックスバザールにある難民キャンプには約100万人のロヒンギャ難民がいる。一方、ラカイン州の人口は約3百万人であるが、10万人のイスラム教徒、4万人のヒンズー教徒そして1万人の仏教徒の国内避難民がいる。この10万人のイスラム教徒はミャンマーがイギリスの植民地になる前から居住していたとのこと。ロヒンギャの人たちはイギリスの統治下の時にバングラデッシュからきた移民であるが、従来からラカイン州にいると主張していることに対してラカインの人たちが事実と違うと一番に反論するポイントである。特に「アラカン・ロヒンギャ・救済・軍」の名称である。
同様のことはスリランカでもいえる。2種類のヒンズー教徒のグループが存在する。イギリスの統治下以前から北部のジャフナを中心として居住する誇り高きヒンズー教徒と、中部の紅茶のプランテーション用の労働力として主としてタミールナドゥ州から移住させられた低カーストのヒンズー教徒である。彼らは本当に貧困下の劣悪な環境で暮らしている。
ロヒンギャ問題は、歴史的には1942年にまでさかのぼることができる。日本軍がミャンマーに侵攻して英国軍が退却した時の政治的空白にロヒンギャがラカイン州を中心に自分たちの国を創るために一斉武装蜂起してラカインの人たちを殺害したことである。200ケ所の村々を焼き、2万人からの死者。20万人以上の人たちが避難民としてシットウエイに逃げ込んだとのこと。それ以後、今回のロヒンギャ難民発生まで彼らの土地はロヒンギャの人たちが耕作していた。ちなみに、CRRは2012年から国内避難民である仏教徒に対する支援活動を開始、2017年に正式な団体として発足したとのこと。なお、CRRが支援している現在の国内避難民は2世代にあたる人たちが主流とのことである。
CRRが説明するように、ロヒンギャと英国の統治以前(ムガール帝国)から居住しているイスラム教徒は別と考えられる。実際に、州都シットウエイの街角でイスラムの服装で歩いている女性達を見かけたし、イスラム教徒が主体の地区もある。いずれにしろ、ロヒンギャの一斉武力蜂起からまだ76年である。ラカインの人たちには恐怖感が残っている。今なお現在の問題として理解するほうが間違いないと考えたい。即ち、歴史になっていないと。
最近の動向を紹介する。2015年にアウンサン・スーチー氏政権になり、少数民族武装グループとの和解政策を打ち出した。すると、2016年6月に3ケ所の警察署がロヒンギャグループに襲撃され、20名前後の警察官を殺害、2017年8月25日の深夜から明け方までに30ケ所の警察署が1千人以上のロヒンギャグループに同時に襲撃され、30名以上を殺害。軍が鎮圧に出動。結果、大量のロヒンギャ難民が発生してコックスバザールへと脱出している。これは、単なる騒乱事件でなく、かなり組織化された武装蜂起とみなすほうが正解である。英国がアウンサン・スーチ―氏を一方的に非難することに筋違いの違和感を覚えるのは私だけだろうか。上げて落とすのは一種のマッチポンプである。本当の解決策にはならない。
外部から参入した少数グループは身の処し方が難しい。AMDAとしての経験では、1992年に発生したネパール系ブータン難民が良き事例である。最初は移民として始まり、その数が増加した。世界を席巻した民主化の波に乗り、「民主化とは多数決なり」と数にまかせて政治を牛耳ろうとした。これに反発した固有のブータン人主体の軍隊に追い出されて、⒑万人以上が難民としてネパールのダマック地区に逃げてきた。AMDAはネパール支部を主力として現在もなお、AMDAダマック病院(50床)を設立して、医療支援を続けている。
ラカイン州はミャンマー連邦の西にありバングラデッシュと国境を共にするが、それ以前はアラカン帝国として現在のバングラデッシュも領土であった。例えば、バングラデッシュの首都のダッカはラカイン語でダー(剣)とガ(盾)の意味である。第2の都市であるチッタゴンとはシット(戦う)とガウ(人)である。即ち戦士である。
仏教もインドのビハール州にあったマガダ王国のブッダガヤから悟りを開いたブッダが直接にアラカン帝国に来て広めた。それをアラカン帝国が、アラカン山脈を越えて、ミャンマーの人たちに流布したとの強烈な自負がある。したがって、ミャンマー人よりはラカイン人であるアイデンティティを誇りにしている。事実、ラカイン州にはたくさんの有名な仏教遺跡が残っている。
ちなみに、日本では祖師仏教といって、天台宗の最澄や真言宗の空海のように仏教の一宗派を立ち上げた祖師をブッダよりも大切にする風潮がある。一方、ブッダが直接に訪れて仏教を広めた元アラカン帝国だったバングラデッシュやラカイン州には、そこに今、ブッダが居られるような感覚で対処しているのが日本人の私にとっては衝撃的だった。日本の教科書ではシルクロードを通して伝わった北方仏教、アショカ大王の仏経使節を契機にスリランカから広まった南方仏教しか教えていなかったから。ブッダによる直接布教は祖師の必要のない系譜である。ちなみに、釈迦ブッダとは釈迦族出身のブッダ(悟りを開いた人)の意味である。カトマンズにいる釈迦族ではこのブッダは二人目のブッダと言われている。
しかし、州都のシットウエイには近代建築様式のビルがほとんどなく、近代化が非常に遅れているのも事実である。地理学的にはアラカン山脈によりラカイン州がミャンマー連邦の他の州から孤立しているように思える。事実として、ラカイン州は第二次世界大戦前には他の州よりインドやイギリスと直結して経済的に発展していた。しかし、ミャンマー独立後はヤンゴンを中心としたアラカン山脈以東が経済的発展をしてその立場が逆転している。