AMDAハイチ共和国コレラ対応緊急医療活動(2011/1発行ジャーナル1月冬号掲載) – AMDA(アムダ)
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AMDAハイチ共和国コレラ対応緊急医療活動(2011/1発行ジャーナル1月冬号掲載)

AMDAハイチ共和国コレラ対応緊急医療活動


救世軍病院(ハイチ)でコレラ患者を診る菅波代表

2010年1月の大地震によりポルトープランス近郊では未だ仮設テントで生活する人びとも多数いるなか、2010年10月中旬からコレラの感染が急速に広がった。これまでのコレラによる死者はハイチ全土で3,651人、感染者数は171,304人となっている(1月1日ハイチ政府発表)。死者数と感染者数は、発生から3か月経ってもなお増え続けている。10月中旬にアルティボニット県だけだったコレラ感染エリアは、約1か月間でハイチ全土10県へ拡大した。
AMDAはドミニカ共和国から医療チームの派遣するための準備を行い11月21日に現地入りする予定だったが、コレラに対する暴動や銃を持ったデモが起こったため派遣を見送ることになってしまった。AMDAは日本で医療チームを再編成し、12月1日に日本からハイチへ医療チーム(菅波医師、松本看護師、ヴィーラヴァーグ調整員)を派遣した。12月5日には朴範子医師、12月7日には山本太郎医師がハイチへ向けて日本を出発した。コレラの治療に必要な医薬品(経口補水剤、乳酸リンゲル輸液、亜鉛液体、抗生物質、点滴チューブ、使い捨て手袋など段ボール箱324個分)は森田調整員がドミニカ共和国で調達し、ハイチへ陸路輸送した。
AMDAはハイチ保健省の決定に従い、首都ポルトープランスから西に約120キロに位置するフォンデネグ市内のサルベーションアーミー(救世軍)病院で医療活動を行なった。AMDA医療チームは病院スタッフと共に、12月7日から24日までの16日間で108人のコレラ患者を診療した。12月15日に病院で初めてのコレラによる死亡者が発生、12月24日までに8人の方がコレラで亡くなっている。サルベーションアーミー病院では、病院内にある隔離部屋をコレラ室として使っている。定数15床のコレラ室に最多で26人の患者が入院していた。コレラ室は他の病棟と近く、キッチンへの出入口となっており、手洗い場所も消毒液もない。コレラ患者の世話は家族が行っており、コレラ室を頻繁に人が出入りしている。
12月17日からは森田調整員とAMDAカナダ支部のオズボーン助産師が当病院に入り、日本から派遣された医師・看護師・調整員が12月20日に帰国するに際し、活動を引き継いだ。二人が引き継いだ直後から病院スタッフの多くがクリスマス休暇を取って人出不足になった。オズボーン助産師と残った病院の看護師がコレラ患者の治療にあたることになった。オズボーン助産師は12月22日の活動報告に「下痢と脱水症状の激しい男性患者がいた。私は、点滴の袋を一日に4回交換し、できる限り側に付き添い、一日中経口補水剤を飲ませていた。彼はその日の晩に亡くなってしまった。」と書いている。この男性には、妻と3人の子どもがいつも付き添っていた。死亡を確認した際、この家族らはショックで一時間以上もコレラ室で泣き叫んでいた。
12月25日からは、病院スタッフが平常業務に戻り、コレラ室にも複数の医師と看護師が働く姿が見られるようになった。AMDA医療チームはこれまでの活動を病院スタッフへ引き継ぎ、12月26日に救世軍病院での活動を一旦終了した。
AMDAは1月5日にAMDA本部ヴィーラヴァーグ調整員を再びハイチに派遣した。ヴィーラヴァーグ調整員はフォンデネグ市救世軍病院の責任者と今後のコレラに対する医療活動について話し合った。病院側からAMDAに対して更なる医療チームの派遣要請があった。AMDAは次の医療チームの派遣に向けて準備を行なっている。