ミャンマー/被災から一ヵ月後の派遣(2008/7発行ダイジェストNo.30掲載) – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

ミャンマー/被災から一ヵ月後の派遣(2008/7発行ダイジェストNo.30掲載)

被災から一ヵ月後の派遣

越谷誠和病院内科医長(呼吸器) 細村 幹夫  


 

 羽田から関空に到着した時は、日付が変わろうとしている頃だった。ひとり、国内線ゲートから国際線ゲートへ。薄暗く、誰もいない。薄暗いチェックインカウンターが、もう今日は終わりだよと言っているようだ。調整員の谷口さんが手を振りながら歩いてくる。彼以外は、初めて会うメンバーだ。でも、ミャンマーに行けば知らない人たちばかりじゃないか。きっと、うまくいくさ。
入国許可は下りたが、活動許可が下りない。ヤンゴン事務所で、現地駐在員より、現在の被害状況と今後の活動方針、医療情報などを聞く。むなしい時間が過ぎていく。同行医師が自分は医療活動を行いたい、一日でも早く、長く活動を行いたいと話しているのを、知らないふりをして黙って聞いている。同感。活動許可が下りない以上、どうしようもない、そんな言い訳を考えながら。一日、一日、自分の体力が落ちていくのが分かる。暑さと、高湿度が奪っていく。なんで、災害から一ヵ月以上たったのに、救援活動に来て、何も出来ないんだ。自分の無力さを思い知る。
永遠に続くかと思われた虚無の時間は、活動許可証の発行により一変した。
ヤンゴン管区南方、約70Kmのクンジャンゴン市での、医療活動が始まる。郊外には、東南アジア独特の田園風景が広がる。雨季のため、空は灰白色、黒い雲がところどころで広がっている。あちこちに、ココ椰子の木が群生している。霧雨が、一瞬にして、話も出来ないくらいのスコールになる。
ミャンマーの人々は、僧院、学校、民家と、どこでも、快く診療場所として提供してくれる。現地スタッフ、保健省のスタッフ、村人、現地通訳、みんな、誰が、どうしろと言わなくても、自分の行うべき仕事を見つけている。巡回診療所が、通常の診療所のようになっている。保健省から派遣された医師も、押し寄せる患者を、医師として診療している。情報と全然違うじゃないか。いや、私が、勝手に思い込んでいただけなのだ。みな、家族を、親戚を、友人を、家を、財産を失って辛いはず。それでも、何とか立ち直ろうとしている。気落ちしているはずなのに。活動許可が下りるまでの、自分の気持ちが恥ずかしい。
サイクロンという災害によるものか、だるい、食欲がない、眠れないなど、いわゆる体調不良という不定愁訴の患者が多い。呼吸器系の患者があまりいない。これでは、特別な特効薬はない。なんとか、この状況を乗り越えよう、その気持ちを、診療という形で実行にうつすしかない。
診療の合間に、スタッフで円卓を囲んで昼食となった。世話をしてくれた女性が、自分の子どもが、サイクロンの高潮で流されたことを話した。おじいさんが、椰子につかまりながら、子どもを必死に抱えたと。一晩中、真っ暗で強い風雨の中、瓦礫の混じった汚れた水に漬かりながら、孫を必死に守ろうとしたのだろう。条件が悪すぎる。暗いヤミの中、自分の手から、かわいい孫が少しずつ離れていく。ふたりが離れる瞬間、子どもの手はドロドロだったのか。温かかったのか。その瞬間、互いに相手の名を呼び合ったのか。想像していると、食事が入らない。みんな、同じ思いだったのか、誰かが「昼飯のときに話すことか?」というが、誰も話を止めない。いったい、何万の悲しみが起こったのか。
伯母らしき人が、小さな女の子を連れてきた。当然、女の子は家族を亡くしている。サイクロン後、みんなと遊ばなくなった、ご飯も食べなくなったと。蝋人形のような表情だ。ASD(急性ストレス障害)、あるいはPTSD(外傷後ストレス障害)の状態だ。スタッフみんなが、何かをして、気持ちをやわらげようとするが、全く反応しない。いったい何人、このような子どもがいるのか。保健省の医師に、保健省として対策を考えているのかと直接聞く。あなたの娘さんと、同じ年頃の子どもですよ、これから、何十年もこんな状態でいなければ、いけないのですか? 医師は自分の娘のように女の子を抱きしめると、やさしい口調で言葉をかけながら、必ず対策が取れるように報告すると約束してくれた。
思い通りに行かないことばかりだった。その日、その日で一喜一憂していた。だが、診療活動を通じて、ミャンマーの人たちとのかかわりは、強いものになっていった。帰国の日は、すぐに迫っていた。複雑な思いを抱きながら、ヤンゴンを離れた。ミャンマーの人々から、沢山の助けを受けた。みんな、ありがとう。私は、あなたたちのことを忘れません。被災後、一ヵ月以上たっての派遣の意味が分かったような気がした。