UCBからの支援、ロヒンギャ難民支援 – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

UCBからの支援、ロヒンギャ難民支援

バングラデシュ担当 橋本 千明

2017年10月のAMDAロヒンギャ難民支援開始にあたり、最初にご寄付下さったのがバングラデシュの国内銀行、バングラデシュ・ユナイテッド・コマーシャル・バンク(United Commercial Bank:UCB)です。UCBは1983年に設立されたバングラデシュの民間商業銀行です。

当初、バングラデシュ政府が海外からの支援を制限していた事情もあり、まず国内団体として政府に正式登録されているAMDAバングラデシュがいち早く支援に乗り出すことになりました。しかし活動開始にあたって最も大きな課題となったのは、[pagebreak]バングラデシュ政府に対し国内に活動のための資金の存在を証明すること。そのような状況の中、UCBからのご寄付は、AMDAチームが迅速に活動を開始する大きな原動力となりました。

UCBはバングラデシュ建国後、最初にバングラデシュ政府に登録した歴史ある銀行のひとつです。現在バングラデシュには合計52の銀行があり、その中でもAMDAのようなNGOへの支援というのは今回のUCBが初めてのケースとなるそうです。ご支援を表明下さったのは、UCB会長、アニスザマンさん(Mr. Anisuzzaman Chowdhury Ronny)。 日本バングラデシュ友好病院設立時のメンバーのひとり、ジュナイド医師の従弟で創業者のご子息にあたる方。ジュナイド医師は以前からAMDAの活動をアニスザマンさんに伝えており、またUCB社長は、ジュナイド医師の40年来の高校の同級生で、いずれもAMDAの活動を理解したうえで積極的にロヒンギャ難民の支援をしたいと申し出て下さった経緯があります。

ご紹介くださった、ジュナイド医師とともにインタビューを行いました。

−なぜ今回ご支援くださったのですか?

私たちは1971年、バングラデシュ独立戦争を経験しました。当時ジュナイド先生も自分も11歳で、首都ダッカも戦場そのものでした。多数のバングラデシュ人がインドに難民として逃れ、食べ物もなく、家族とはぐれた人も多かったです。生活も悲惨で今のロヒンギャ難民となんら変わらない状況で生活していました。

私たちの脳の中にその時の記憶が種のように刻まれています。ロヒンギャ難民は、我々に国で育った人たちではないかもしれないが、同じベンガル人です。何も持たずに国を追われ、国籍がなく行き場のない彼らに、何もしないという選択肢はありませんでした。バングラデシュは、経済的には最貧国と表現されることもあるほど金銭的に苦しい人もたくさんいる国です。人口も多く余裕がある国ではありません。しかし、海外からの支援が制限されていた中我々が支援を表明しなければ誰が彼らを助けられるのだろう。そういった使命感がありました。

−過去に、難民や災害支援のご経験はありますか?

1991年の(バングラデシュ南東部)チッタゴンで大きな洪水があった時に、当時の留学先のイギリスから帰ってきて支援をしました。父が、困った人を助けたいという気持ちを持っていて、ともに物資などの支援活動を行いました。道路にも遺体がごろごろと並んでいて悲惨な状況でした。それでも先に進まなければならないと思い、その道を通りました。

−AMDAロヒンギャ難民支援、後半6か月にもご支援をくださいました。なぜでしょうか?

 

感謝状のお渡し

AMDAバングラデシュより前半6か月の活動報告を受けました。多くの難民の方が直接診療を受けられたこと、きちんとお金が使われていることを知りました。どのような環境で医療チームが働いているかも話を聞きました。

海外からも日本の方が来られ、バングラデシュのことを考えてバングラデシュのスタッフと共に働いているということは素晴らしいことだと思います。引き続きロヒンギャ難民のために頑張って欲しいと思っています。ロヒンギャ難民を忘れることは、過去の自分たちの経験が忘れ去られること。過去の悲劇のうえに、バングラデシュも独立を勝ち取った。だから、できることをしなければと考えています。