東日本大震災から10年(1) 「東日本大震災 大槌町医療支援」 – AMDA(アムダ)
救える命があればどこまでも
特定非営利活動法人アムダ
国連経済社会理事会総合協議資格NGO

東日本大震災から10年(1) 「東日本大震災 大槌町医療支援」

医師 高岡 邦子

私は、2008年末にクリニックを後継者に譲りAMDAの海外医療支援に参加すべく2010年春から国際協力関係の大学院に進学した。2011年3月18日に修了式を控え同級生たちと打ち合わせのために華やいだ日々を送っていた私は3月11日の午後の突然の揺れに茫然としていた。

3月18日に岡山のAMDA本部に合流し19日に花巻に向けてセスナで飛び立った。

19日から大槌高校の保健室をお借りして避難された住民の診療にあたったが、着の身着のまま避難された方々の診療は常用薬の手掛かりがなく困難を極めた。日々の診療中、海水に濡れたまま入浴もできずにいるのに「お風呂に入っていないから臭くてゴメンね」と我々を気遣う温かくて我慢強すぎる東北の人々にすぐに惹かれて「この人たちのためにできるだけの事をしよう」と決心した。
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セスナに乗り込む高岡医師

診察を行う高岡医師(写真左)

マスコミも殺到しほとんどが3泊4日の他のチームでは対応しきれないため3日目からは調整役にまわった。高校の教師たちとの全体ミーティングから始まり毎日釜石までの往復を含む6つのミーテイングをこなしていた。次週来るJMATの構成を聞き出し足りない人員を災害対策本部に要請し、担当の診療科の患者を集め、仕事を探せない人たちには仕事を割振りAMDAチーム内にも目配りし・・・まだ携帯が通じないので常に走り回っていた。

医療チームとのミーティング

毎日の災害対策本部

消防隊や自衛隊との連携

そんな日々の中で大槌高校の学生たちは幼い子どもの面倒をみたりプールから水を運んだりトイレ掃除をしたり気丈に振舞っていた。幼い顔つきの中に時折見せる深い悲しみを秘めている様子が手にとるようによくわかり胸が痛んだ。

ようやく4月中旬に入学式が執り行われ、用意した制服は津波で流されほとんどの学生はジャージ姿だった。国歌斉唱の際にはようやくこの日を迎えることができた関係者の胸中を想い涙が込み上げてきた。校長先生の祝辞の中で「他人の痛みがわかる人間になって欲しい」との言葉が印象に残っている。私は「復興には5年、10年かかる。それを担うのはまさにあなた方の世代だからそれを肝に銘じて」と挨拶した。
その後、毎年1,2回は釜石・大槌を訪問しているが、昨年はコロナ禍でかなわなかった。当時の高校生たち数人とはFBで繋がっているが、ほとんどは動静が不明である。

震災から10年を経て、当時はまだ幼い面もあった高校生たちは20代後半になって復興の中心的存在になっているはずであり、ぜひとも彼らの活躍を知りたいと思う。そして、多感な頃に震災を経験した世代がこれから数十年に亘って復興の要となっていくことに大いに期待している。過酷な第一次産業だけでなく若い感性を生かして第六次産業まで一貫して行えるように変えていけば若い世代の雇用も生み出せると考えている。

*「AMDA東日本大震災10年 オンライン交流会」開催のお知らせ
3月26日(金)午後3時より、東日本大震災発生後10年間の緊急支援・復興支援活動についてご協力・ご支援いただいた方々からご報告・ご共有いただき、次につなげていく「オンライン交流会」を開催いたします。是非ご参加ください。

詳しい内容・お申し込み方法につきましては

https://amda.or.jp/articlelist/?work_id=6910
をご覧ください。