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歴史と現状
アフリカ西海岸の奴隷売買では、首に瘤がある奴隷はすぐに死ぬと知られていたので、売れなかったという。海軍の軍医達は、この嗜眠性の病気がベニン、ギニア海岸、シエラレオネの沿岸の原住民に認めていた。しかし今世紀初頭までは、この睡眠病の経過に2つの型がある、とする考え方は確立されていなかった。1901年にガンビアで英国人士官の血中から《虫が這ったような》ものが初めて分離され、リバプールでtrypanosomesと鑑定されて、T.gambiense と命名された。それから9年後に、ローデシアで別のヒトのトリパノソーマ、T.rhodesiense が記載された。
睡眠病の浸淫は黒アフリカの幾つかの国で長期間猛威を揮った。1924−26年にはカメルーンの中央部で、全死亡数の45%が本症に因るという劇的な事態もあった。 Jamotというフランス人医師はAyosで、1926−1932年にかけて初歩的な移動検診班を組織して治療を行い、猛威を食い止めた。 Jamotが提唱した方法は、熱帯地域での《大浸淫》に対する闘いの手本になっている。撲滅計画が順調に行き、1960年頃に黒アフリカの大半の国で小康化し、相対的に影響は小さくなった。この2つの新しい疾患について、I万人に達する人たちが疫学調査に加わった。遺憾なことに、多くの調査班が解散し、経験者はよその部署に昇進し、資金不足や時にはやり方に問題があったりして、この体制は風前の燈である。ザイールでは発生率は下降傾向だったが、ある地域では1960年には0.02%だったのが、1966年には10%に上がった。ナイジェリアやアンゴラでは「10年間の調査と治療の成果が社会の混乱と停滞で数年のうちに消失してしまった。人々は虫から逃れるために集団で土地を離れることを余儀なくされ、原住民によって放棄された健康に良くないその土地に、今度は難民が移り住む。ヒトと蝿の大規模な雑居が続いている。」という。実際にウガンダ北部のスーダンに面した所はT.gambiense の伝播の中心があり、南部のビクトリア湖に面した所はT.rhodesiense の中心があって、後者は消滅しつつある。けれども政治社会状況が不安定になれば、再び伝播が拡がる下地を作る。
もう一つ重要な出来事は、 (Douala, Libreville, Brazzaville, Bamako)といった都市部でこの疾患が農村部と同じように出現していることがある。農村部の若者が大量に中小の都市に魅れて移り住み、そこから頻回に農村部へ遠出して、むこうで感染する。結果的には、より重要な伝播の中心は都市部に移り、都市部の都市化が影響していると説明付けられる。
睡眠病はその頻度からして、特にアフリカ中央部で再び大規模な浸淫になる傾向がある。依然恐るべき伝播力で、治療が難しく、危険に曝されている住民には定期的な防疫活動が必要である。未だ理想的な治療法がなく、 melarsoprol耐性株が最近発見されたことから、より悲観的にならざるを得ない。化学療法が進歩する可能性は現実として少ない。私企業で治療研究の成果が見られれば、大変大きな向上と利益を引き出すことが出来よう。 簡易試験が出来上がり、大規模な疾病調査に利用されるうちに、媒介蝿の捕捉器が改良され、PNUD(国連開発計画)、世界銀行、OMS(世界保健機関)の熱帯性疾患に関する調査特別計画に採用された。1975−85年の10年間では重要な研究予算を占めており、これにより検診の改善と治療及び予防の進歩が見られた。
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