スーダン

放置された大地で
−復興に向け、スーダンでの新プロジェクト開始−

緊急救援事業部長 小西  司

「ダルフールはとても豊かなところだ。森があり、滝があり、かつては観 光地でさえあった。豊富な果物と広い畑が広がっていて、暮らしは貧しいけ れど、みな助け合って暮らしていた。」
 AMDAスーダン支部代表のモハメド・アラバーブ氏が、その出身地でも あるダルフール地方について語るときは二つの表情が交錯する。そのアフリ カン・サバンナとサハラ砂漠の境目に広がるなだらかな高原で育ったころ、 平和な暮らしがあったことを懐かしく。一方で今や国連で非難されるほど の虐殺の大地としての苦悩の表情を。 
 ダルフール地方は、ナイル河のほとりにある首都ハルツ ームからサハラ砂漠を越えて1600km南西にあるが、内陸の 高原のため幾分涼しく感じられる。南ダルフール州の町ニ ャラ市は、サバンナの交易の中心地として栄えた歴史があ り、今もその活気は失われていない。しかし今、町にあふれ ているのは、その周囲の村村から逃れてきた避難民たちだ。 町を20kmも離れると、そこには略奪と紛争に晒された村が 点在する。略奪されて傾いた家屋、収穫されないまま放置された 畑。州の中心都市ニャラ市も、つい先ごろまで外部とつなぐ陸路が閉ざさ れ、物資を空輸に頼る日々だった。市の郊外の畑ではトウジンビエの穂が収 穫されないまま放置され、野鳥だけが人の気配に舞い上がる。所々に人の気 配のある村もあるが、大半は無人となったままだった。ニャラ市南西にある 郊外の村人の話では、
「7月に隣の村が襲われて、焼かれたと聞きましてね、急いで妻と子どもをニ ャラ市の親類の家へ逃がしたよ。村の人も半分以上逃げたしね。ワシはこの 店に隠れて閉じこもって、じっと見ていた。焼かれることはなかったが、残 った人、5人くらい殺されたね。先月から少しずつ帰ってきてる。みんな畑 でモロコシの収穫をしないとな。でも女子どもはみんなまだキャンプに預け てる。」

ニャラ市郊外のカルマ避難民キャンプ

紛争に晒された遠隔地から、虐殺や略奪を逃れてきた人々ははじめ、安全 といわれる町に近い村へ逃げ、学校の校庭などに枯れ枝で小屋を作り、身を 寄せ合って暮らしたという。その後、次第に安全が確保された避難民キャンプに集まり、 国際機関の援助を受けてようやくテントでの暮らしができるようになった。 比較的安全と言われているニャラ市南東に位置するカルマ避難民キャンプでは4万人が暮らし、 国際機関とスーダン政府に保護されているが、時折それでも銃声が響き、爆弾騒 ぎがある。同キャンプ内には1万人に一つという、草葺の仮設診療所があ り、毎日300人以上の患者が詰め掛ける。7割近くを占めるのがマラリヤや チフスなどの疾患だが、電気も検査機器もない仮設診療所で、夜間の出産ケ ースも多発しており、診療できる範囲が限られ困難を極めている。
 ニャラ市の市民病院(Teaching Hospital)には各地の避難民キャンプの仮設診療所から患者が次々と運び込 まれてくる。約320床があるが、ただでさえ老朽化の激しい病棟では収容し きれず、木とビニール張りの仮設病棟に家族ごと詰め込まれている状態であ る。通常の診療に加え、毎週約300人の重症疾患患者を遠隔地から受け入 れ、検査室も医局も騒然としている。 州保健省の建設技師は、「もともと、 貧しいスーダンの、その中でも内陸の僻地にあったこの地方では、半ば自給 自足的に暮らしてきました。病院もごらんのとおり荒れていますが、もとも と市民がお金を出し合ってなんとか維持してきたのです。」
 施設整備は急を要し、2004年8月以来大急ぎで修復工事が行われている が、当分は混乱が続くだろう。列をなす患者のために緊急患者用の検査室が 仮設されているが、そこにある機材は顕微鏡1台と冷蔵庫程度のため、検査 できるのはマラリヤの血液検査程度である。それでも、救急患者の70%を検 査・診断している。病院と協力関係にある国連の担当者は焦りを感じつつ、 「この病院まで来ることができれば、患者は診療を受けることができます。 しかし治安の変化で安全な交通手段を確保できない人たちは、村の仮 設保健所で受けられる簡単な投薬などの初期治療がせいぜいで す。仮設保健所もない村の方がさらに多い。まともな治療をう けることもなく村の中に居る潜在的な患者は数知れません。子 どもたちへの予防接種率でさえ60%以下になったこともある。 この紛争の影響は、次世代まで長く残ることになるでしょう。」
 AMDAは1995年よりスーダンにて洪水救援、マラリヤ対策な どで協力してきた。また昨年10月より、AMDAスーダン支部と ともにここ南ダルフール州市民病院と協力し、医療支援を開始している。今 後は首都ハルツームに事業本部、ニャラ市に医療チームを派遣し、紛争で生 活を失った人々への医療救援を進めていく計画である。
 ダルフール紛争の背景については様々な憶測や説がある。隣国の紛争、国 際的な陰謀説、民族浄化説…。しかし、たとえば紛争国でもアフガニスタンの 家屋が城砦のように高い塀で囲まれているのに対し、ダルフールの農村の家 々は草と木の小屋に過ぎず、もとより暮らしのスタイルが紛争や襲撃に対し て準備されたものではなかったと考えられる。このことは、つい最近まで争 いのない平和な地域社会であったことを意味しているのだろう。100万人を 越える避難民、20万人近い難民の発生の原因は単純ではない。
 「始まりは水でした。ダルフールでは乾季には水がなくなるのです。遊牧 民も農耕民も、部族社会の掟を守って、村の年寄たちが話し合って取り決 めているうちは良かったのです。でも人もラクダもヤギも畑も増えてきま す。そこへ、隣のチャドで長く続いた戦争から、武器が流れ込んできた。若 い者は年寄の言うことを聞きません。きっかけは些細なケンカだったのでし ょうが、銃が使われ、やがて村どうし、ついに部族間の争いにまで拡大してい ったのです。武器を手放させ、代わりに井戸などを設置し、話し合う場を作 っていかないと解決しません。」
 銃などの小火器回収活動に取り組む地元NGOのエル・オベイド氏は熱心 に、しかしその困難さ、道のりの遠さを説明してくれた。また、ニャラ市で 治安担当をしている若い職員は苦々しくこぼす。
「治安を確保しろ、確保しないで放置するのは虐殺だ、と言うけど、ダルフ ールはフランスくらいの広さがあるし、しかも道路さえろくにないサバン ナなんだよ。最貧国の一つだったこの国に、どうやってこんなに広いエリアの 治安を確保しろというのだい?偵察用飛行機はもちろん、車両、通信機さえ足りない。 誰だって怖いよ。」
 紛争の火種を小さい内に消していければ、ここまで大きな問 題になることはなかったのだろうか?。
 ダルフール紛争に加え、スーダンでは20年以上続いた南部キ リスト教独立勢力と政府側との紛争がようやく和平合意に達しつつある。 しかし南部から逃れてきた避難民180万人が今もハルツーム周辺に暮らし ており、その故郷への帰還作業はまだ進まない。一方で次々と発見され る油田、輸出が急増する石油資源と、それに絡む国際石油資本が水面下で 開発と市場を競い、ハルツームにはガラス張りの瀟洒な石油関連の高層 ビルが次々と建設されている。
 スーダンは、この豊かさの上で繰り広げられてきた長い内戦の歴史を克服し 、アフリカとアラブの多様性が共存する豊かな国となるのか、 それとも資源をめぐる外部からの干渉と果てしない混乱に陥るのか。
 庶民からは手の届かないところで、今、この国は独立以来最大の転換点に 差し掛かっている。AMDAは、この紛争、そして狭間で翻弄される人々が平 和、明日への希望と家族の生活と安寧を得られる社会を構築できるよう、 これからも協力していきたい。




緊急救援活動

アメリカ

アンゴラ

イラク

インドネシア

ウガンダ

カンボジア

グアテマラ

ケニア

コソボ

ザンビア

ジブチ

スーダン

スリランカ

ネパール

パキスタン

バングラデシュ

フイリピン

ベトナム

ペルー

ボリビア

ホンジュラス

ミャンマー

ルワンダ

ASMP 特集

防災訓練

スタディツアー

国際協力ひろば