スタディツアー

ジブチ・難民キャンプを訪れて

菅谷 純子
AMDA Journal 2000年 10月号より掲載

いくつかあるAMDAのスタディツアーの中から、私がジブチを選んだ理由はこれだ。

 中学生の頃、本屋でアフリカの大干ばつによる難民の写真を見たことがある。写真の中には、マッチ棒のように細い体に大きな頭がのっかった子どもが写っていた。ハエがたくさんたかった体や、訴えかけてくるような瞳で見ていた顔が衝撃的だった。

 日本には存在しない”難民”。何を食べてどんな生活をしているのだろう。“難民キャンプ”を一度自分の目で見てみたい!! その思いは変わらず、今回そのチャンスがやってきたのだ。

 それにしても“ジブチ”ってどこ?地球儀でジブチの国を探し出すのに30分以上かかった。エチオピア、エリトリア、ソマリアと国境を接した小さな国だった。北海道の約3分の1の大きさだという。今回のスタディツアーがなければ、一生知らなかった国かも知れない。アフリカ大陸最後のフランス領で1977年に独立している。

 ジブチのガイドブック等勿論なかった。出発前にジブチ大使館を訪ねたが地図はきらしているとかで、前日にAMDAのジブチ担当の谷合さんから頂いた数枚の資料のみを手に、具体的な雰囲気を全くイメージ出来ないまま私は日本を出発した。

 「Are you Junko?」
 ジブチの空港に着くと、大きな体の男性が私の前に現れた。現地AMDAのロジスティシャンのフセインさんだった。横から「こんにちは、菅谷さん?私、伊藤です」と日本語が聞こえてきた時どんなにホッとしたか。そしてAMDAジブチ駐在代表のハサン・カリム氏の3人が迎えに来て下さり、ジブチスタディツアーは始まった。

 ジブチは東側にアデン湾と紅海が広がっており、きれいとはいえない海だったが現地の人たちは楽しそうに水浴びをしていた。又、気候は暑く乾燥していて雨がほとんど降らないため、“屋外映画館”等が街にはあった。アーミー服で身を包んだフランス兵も多く見かけた。

 AMDAはジブチで2つのプロジェクトを実施しており、1つは2ヶ所の難民キャンプでの医療支援、もう1つはジブチ市のダル・エル・ハナン病院での医療支援だ。

 ダル・エル・ハナン病院はジブチ市内にある唯一の産婦人科の公立専門病院で、貧困地区の患者や難民も無料で受け入れている。伊藤まり子先生はこの病院に今年の5月から派遣された産婦人科医である。

 9時頃ダル・エル・ハナン病院に到着すると、既に数十人の外来患者が列を作って待っていた。病院自体私が想像していたよりずっと広く、病床数も30床はあった。診察は、現地の助産婦2〜3人がソマリア語で各妊婦の症状を聞いて説明する。それをAMDAのジブチ人秘書が英語に訳して伊藤先生に伝える、という二重通訳だ。医療器具は殆どなく、各妊婦の体温表を見ながら聴診器のみで1人ずつ診察していく。

 驚いたことが2つある。

 1つめは、衛生面だ。診察で使用する内診用の器具は錆び付いて滅菌する機械はあるが有効活用されているのか疑問だった。ゴミ箱には針やら汚物が一緒に捨てられている。処置台の上には、使用済みの血液の付着した針や便器が置かれていた。針刺し事故が問題になっている日本の病院では考えられないことだ。日本での清潔観は通用しないと聞いていたが1つ1つに驚かずにはいられなかった。

 もう1つは”無料”について。どこも何ともない人がたくさん来るそうだ。入院の必要性のない人が突然自己申告で入院していたり、無料で行うためタダなら診てもらおうと皆やって来るのだ。必要な人に必要な診療が施されればもう少し循環よく進むのではないか。ただ、お金をとれば本当に治療が必要な人が診察を受けられない可能性がある。”無料”の難しさに気付いた。

 それでもAMDAで購入された超音波のお陰で多くの妊婦のお腹の中で子どもの成長を確認することができる。又、伊藤先生の穏やかで落ち着いた態度は安心感を与え、ジブチの女性にとっても話しやすい貴重な存在に思えた。

 ところで、ジブチは暑い!という情報は聞いていたが、本当に恐ろしく暑かった。私の行った7月は日中の最高気温は摂氏50度を越える。例えれば、巨大なドライヤーの熱風に包まれている感じだ。だから、ジブチでは最も気温の高くなる12時〜16時頃までは働かずに休息をとるそうだ。この中では働いても効率が上がらないだろう。

 いよいよ難民キャンプに行く日がやってきた。

 ジブチには、ソマリアとエチオピアからそれぞれ内戦を逃れてジブチにやってきた約2万人の難民がホルホルキャンプとアリアデキャンプの2ヶ所で生活している。ジブチ市からホルホルキャンプまで50km、アリアデキャンプまでは140km離れている。

 カナダから1ヶ月ボランティアに来ているという大学生のサラと一緒に運転手のバングラさんの運転でキャンプへ向かった。国土の殆どが砂漠と聞いていたが、私の想像していた永遠に広がる砂の砂漠ではなく、石や岩がごろごろある中、時折ラクダの群やヒツジが見られる、ごつごつした感じの砂漠だった。

 初めて近くで見るラクダに、サラも私も大興奮し、車を止めてもらい写真を撮ったりした。走ること約1時間、何もない岩の砂漠の中に無数の白いテントが現れた。ホルホル難民キャンプに着いた。車から降りるとたくさんの子どもたちにあっという間に囲まれてしまった。明らかに警戒したような、でも好奇心いっぱいの目でこちらを見ている。唯一覚えたソマリ語で「ナバット(こんにちは)!」と言うと、皆の顔がパッと笑顔になり「ナバット!」と返ってきた。

 ホルホルキャンプで、AMDAメディカルコーディネーターのパラカシュ医師と出会った。2人の医師でホルホルとアリアデキャンプを毎日交互に訪れ、診察を行っているそうだ。

 キャンプ内の医務室に連れて行ってもらう。医務室といっても診察台の他は何もない。専門的な治療が必要な場合、総合病院へ難民患者を転送し、入院した後も継続的にケアを続け、薬や治療費をAMDAが負担しているという。その日も、2歳位の子どもが盲腸の穿孔らしいとの診断で、市内の病院に送られることになった。外科病棟ナース5年目の私は、盲腸の穿孔といったら緊急手術を要するもので、特に子ども等は放っておくと死にも至るという意識が強く、「早く連れていって!」と内心ドキドキして見ていた。ところが1時間程経過してもまだ準備ができない様子。車の手配等がスムーズにいかないようだ。これで市内まで車で1時間かけてその後手術なんて大丈夫だろうか…。母親の腕の中でぐったりとしているその子を目の前にしてもどうしようもない。ここが日本だったら救急車で運んですぐ手術できるのに…。こんなに痛い思いもしなくて済むのにと思ってしまった。

 キャンプ内には看護士が何名かいて、日本のように資格はないが点滴をとったり薬の管理も行うそうだ。予防接種の注射も彼らが行っていた。

 給食センターでは定期的に子どもの体重を測定し、体重が増えない子は1日3回の給食に加えて補助食を与えるそうだ。吊りばかりのようなぶら下がる体重計に楽しそうに子どもがのっている姿が印象的だった。

 外では子どもたちが元気に遊んでおり、皆服を着ていて、又意外と靴を履いている子どもが多かった。私の持っているカメラをとても珍しがって撮って撮ってと集まってくる。言葉は通じなかったがジェスチャーと紙に書いた絵、あとは笑顔でこんなにコミュニケーションがとれるものかと驚いた。キャンプにいる時、私はトイレに行きたくなった。子どもに案内してもらったトイレは、トタン板で四方を囲われており、中に入ると深く掘られた穴が1つ。しかし私は中の臭いに思わず息をとめ、たまった汚物を見るとそこで用をたせずに出てきてしまった。難民キャンプの中だということを実感した一面であった。

 そんな我慢に猛暑がたたり、更に荒れ道を走り続ける車の中で私はとても気分が悪くなった。その日はパラカシュ医師のいるアリサビエ市のAMDAのもう1つのオフィスに泊めてもらうことになっていた。アリアデキャンプを出てそのオフィスまでどんなに遠くへ感じたことか。喉が乾くが水を飲むと吐いてしまい車を何度も止めて頂き多大な迷惑をかけてしまった。パラカシュ医師は毎日毎日この道をバンピングしながら車に揺られて往診に行っているなんてすごいと思った。

 キャンプ内のテントに入る機会があった。驚いたことにテントの中には2つの部屋があり、外見とは裏腹に美しい布や置物で飾られ、中だけ見たらどこかの宮廷(それは大げさだが)の一室かとも思える程に素敵だった。ちょうど昼食だといって、パンとお茶を食べているところだった。そこで私はいくつかのソマリ語を教えてもらい代わりに日本語を彼女たちに教えた。以前AMDAの看護婦としてこのキャンプに援助活動に来ていた日本人に教わったとのことで「ありがとう」や「さようなら」は既に知っていた。日本人はどんな食べ物を食べるの?とか日本での楽しみは何?と色々なことを聞かれ、1つ1つ答えていく中ここで暮らしている人々の生活とあまりに違いすぎる気がして、どう話していいのかわからなくなった。

 話していた女性はキャンプ内のナースで、約6年の難民としてキャンプで生活した後、結婚して今はアリサビエ市内の家で2人の子どもと暮らしているそうだ。そしてもう1人お腹の中に赤ちゃんがいて、双子がいるかと思える程のはちきれそうに大きなお腹を抱えていた。無事な出産を祈っている。

 アリサビエのAMDAオフィスは広く、中には薬をはじめ、医療器具等の物資が大量に山積みにされていた。段ボールには”UNHCR”(国連難民高等弁務官事務所)と書かれている。AMDAはUNHCRと協力し、医療援助を提供しているそうだ。

 伊藤先生は難民キャンプの人々は恵まれているとおっしゃった。AMDAの援助の成果もあり、食料の配給も十分で難民キャンプ内の生活環境も整ってきているそうだ。子どもは予防接種も受けられるし、入院中の治療費も提供される。

 逆にジブチ人の方が毎日の食事もままならぬ人々もおり、難民から難民カードを買って配給を受けている人もいるという。私達が援助を続ける限り難民たちはキャンプ内にとどまり続けるかもしれないという伊藤先生の言葉はとても考えさせられた。目標は”自分の国へ帰ること”で、皆祖国へ帰りたいという気持ちではないかと思う。しかし平和が祖国に訪れるまで、帰っても十分な生活をして行くことは出来ないだろう。ならばこのキャンプ内にいた方が安定した生活を送れる。だからそれまで支援活動は続けていく必要がある。いつになったら難民たちが安心して自分の国へ帰れるのだろう。

 “援助する”って難しいのだなと思った。

 今回のスタディツアーは1人で参加したこともあり、細かい希望をハサン・カリム氏がよく聞いて下さり、空いた時間は現地の国立病院を見学に行ったり、皆で塩の採れる湖、アサール湖にも行った。

 街を車で走っている時、ドライバーのバングラさんが行く人行く人と挨拶を交わしている。「ジブチは小さな国だからね。街中知っている人ばかりだよ。子どもも老人も仲良しだ」と笑うバングラさんを見て、ジブチって素敵な国だと思った。そして私は東京でのゆとりのない自分の生活を思い出していた。街中でぶつかっても知らん顔の人々や、歩くスピードについていけないナと感じつつ、駅の自動券売機で切符が出てくる3秒が待てずにイライラしてしまう時がある。たくさんの物が溢れているが、今回のようにゆっくり考える時間はなかった様に思う。

 私は今回のツアーで片言の英語でコミュニケーションを図っていたが、言いたいことが伝わらなくもどかしくて嫌になってしまうことが何度かあった。伊藤先生が一緒の時はつい英語から逃げて通訳してもらおうとしていた。ある時やはり言いたいことが英語で出てこず、助けを求めていると「Try!」と一言言われた。“どうして!?通訳してくれてもいいじゃない!”と思った後にハッとした。一人の時は辞書を引いて必死に伝えようとしていたのに、一緒だと甘えていると思った。上手く伝わらなくてもTryしていくことが大切なんだ。こんな小さな事だが私にとって大きな出来事だった。英語だけでなく、全てのことにTry!の気持ちで取り組んでいきたいと思った。それを教えていただきとても感謝している。

 正直なところ、1週間ではまだわからないこともたくさんあった。しかし、ずっと行きたかった難民キャンプをこの目で見た。いくつかの病院を訪ね、多くのことに驚き、“日本では○○なのに”と日本中心の価値観で見てしまう自分に気付いた。そしてたくさんの人たちと話すことができ、世界には色々な人々が生きていて、しかし私達の住む先進国の理屈では変えられない色々な価値観が存在することがわかった。

 豊かな国といわれる日本だが本当の豊かさって何だろう?そんな疑問を抱きながら、私はいつかまたもう1度ジブチに行ってみたいと思った。



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