スリランカ

ワウニア地区
基礎保健サービス復興支援事業


AMDAスリランカ 吉見 千恵
AMDA Journal 2004年 10月号より掲載

産科病棟建設の目的で現地視察
産科病棟建設の目的で現地視察
6.特徴2 産科病棟のデザイン

 今回、AMDAが産科病棟を建設するにあたり、是非ともやりたかったのは、既存のデザインの変更である。 私は建築の専門家でも医療の専門家でもないが、今までいくつかの組織で働いてきた経験と、医療スタッフに とって働きやすい場所か、あるいは妊産婦にとって子どもを産みたい場所か、と思いを巡らせる想像力はある。 そういう目で見て既存のデザインは改善の余地があった。結果、医療スタッフにとって動きやすいように、 お母さんに数日宿泊してもよいと思われるように、家族に気軽にお見舞いに来てもらいやすいように、といった工夫をしてみた。 その効果については、完成後の2005年 4月以降、あるいは事業終了の2006年4月時点の訪問者数で計れるはずなので 別稿にて報告したい。
 ところで、この「改善の余地」は私だけが感じていたことではなかった。実際に使用している医療従事者や、 県保健局長と話してみるとやはり「何とかならないものか」と思っており、改善のための彼らなりの案を持って いることがわかった。では何故そのデザインが変わらぬまま適応されているのだろうと疑問に思い、今度は政府の 保健医療関係の建物を一手に引き受けている建設局に尋ねたら、建設局も決められたデザインのものを建てる権限 しかないとのこと。基本デザインを決めるのは結局県レベルというよりはおそらく州レベルの話のようである。 それと同時に、県保健局長はデザインに対して最終的に承認を出す権限を有しているので、やろうと思えば変更も できるはずなのだが、誰よりも忙しい人で、結局のところデザインを考え直すという仕事まで手が回らないという ことのようである。こういう背景のもと、設計を変えることに事前に同意していただき、いくつか現存するデザインを寄 せ集め、各関係者の話を聞きながら改良を加えていった。この作業で大事だったのは、できるだけ多くの人の意見を 反映させることである。産科病棟に「完璧な形」などはあり得ない。利便性・衛生・コスト・見栄えなどを考慮して生まれる、 言葉は悪いが、妥協の産物である。そこで、より「完璧な形」を目指すというよりも、自分たちの意見が取り入れられたという 小さな喜びを感じてもらい、建物に対する責任や愛情を持ってもらおうというのが狙いなのである。
 話は少し逸れるが、スリランカの強味であると共に弱点でもあるのが、行政機構が中途半端に発達しているところである。 ほぼ完全にトップダウンが浸透しているので、上部からの指令があれば下部組織はその通りに動くが、下からの新しいアイ デアが上に採用される仕組みにはあまりなっていない。また途上国にはよく見られる傾向であるが、政権が替わるとそれまで のやり方が否定され、極端な場合には長期事業さえいきなり中止になってしまうこともある。それまでに費やした時間や 経費そして関係者の気持ちも全て無駄になってしまうのだ。また、後任者の非難を憂慮し、小さな疑問に目をつぶり、 前例を踏襲するという側面もある。
 話を戻そう。こうした社会背景のもと、「外国NGO」は何ができるか。私の率直な回答は「かなりいろいろなことができる」 である。今回の産科病棟設計変更もそのうちのひとつである。地元の医師や助産師さんたちが自分たちのアイデアを図面に 書いて、上層部に訴えたとしても、受け入れられる可能性は低い。非常に残念なことだが、社会的にそういう仕組みになって おらず、だから下の人は現状に甘んじるしかない。そこで外国NGOの登場である。外国NGOの支援を政府関係者は歓迎しており、 偉い役人も耳を傾けてくれやすい。こういった風潮は、日本で言うならば日産とカルロス・ゴーン氏の関係と多少似ているの ではないだろうか。彼の経営立て直しの手腕(豪腕と言っても過言ではないだろう)に対する評価は随分高いが、改革を大々 的に推進できたのは彼の経営技術と言うよりは、彼がフランス人であり、それまでの日産ファミリーを絡めていた 日本人社会のしがらみから無縁であったことが何よりも大きく起因している、という評論がある。スリランカも同じで、地元 のことは「よく知らない」外国NGOであるが、「よく知らない」からこそ従来の慣習や束縛を受けずに、ちょっとした新しい ことができるという利点もある。

現地の人々の生活 現地の人々の生活
現地の人々の生活
7.特徴3 医療調整員の存在

当事業には、日本からもう一人添川さんという看護師が医療調整員として赴任し活躍している。「保健医療の事 業なのだから医療関係者がいるのは当然でしょう」と思われるかも知れない。しかし、実は当然ではない。北東 部で母子保健事業を大きく展開しているとある国際機関がある。首都コロンボにある本部には医師がスタッフとしているが、 マナー県とワウニア県を担当しているワウニアの事務所には医療関係者はいない。全員がジェネラリストなのである。 事務所長が言うには「今までずっとジェネラリストだけでやってきたが、さすがに限界を感じている。 医療専門家が必要である旨は本部にも伝えているが、これだけ大きな組織なので人をひとり雇うだけでもおそろしく 時間がかかる」とのことであった。せっかく良い候補者が見つかっても、最終的な承認が本部からなかなか下りず 随分待たせた結果、当人が別の仕事を見つけてしまった、ということもあったとのこと。そんなわけで今まで行ってきた 事業(保健所の建設、医療器材の支給、助産師への自転車供給)のモニタリングも評価も十分に行うのが難しいようだ。 勿論基本的に地元の地方政府からの要請を受けた上で活動を行っているので、地元のニーズに添った事業内容ではあるのだが 、どちらかというと支援するという行為に重点が置かれているように見える。翻ってAMDAの場合は建設・機材・教育訓練 どれをとっても各活動を実施することそのものよりはその後にあがる効果がいかほどのものか、という点をより重視しており 、さらにそれらを医療専門家の視点ではかることができる。これは大きな違いではないだろうか。

8.特徴4 地元民にとって外国NGOで働くということ

 少し視点を変えて、事業そのものではなく、AMDAスタッフとして雇用された人々からAMDAの存在を見てみたい。 前述の通り「外国人」はそれなりにステイタスがあり、国際NGOとなるとさらに高くなる。
 日本で「NGO」というと、「ボランティア」「善意の活動」「社会福祉」というイメージをもたれているのではないだろうか。 かくいう私も日本に帰るたびに母から「ところであんたはスリランカで何してるん?」と聞かれ、何度も説明するのだが さっぱりわからないらしく、結局「よーわからんわ、とりあえず早よいい人見つけて結婚したらどうよ」と責められる始末で ある。まともな就職先だとは思ってもらえないらしい。
   一方でスリランカでは(おそらく他の途上国でも)「NGO」は実に立派な就職口なのである。政府の下級職員の初任給が Rs.4,000(日本円で約4,400 円)であるのに対し、例えば国連の運転手になると月給Rs.15,000(約16,500 円)ももらえてしまう。 (国連はNGOではないが、こちらでは全て同じ意味に使うのでここでも「NGO」として扱うことをご了承いただきたい)
 AMDAはさすがにそういう格差づくりをあまり助長しないためにもう少し低めに設定しているが、それでもある程度の 給料を支払わないと優秀な人は来てくれないので、普通のお店や政府機関よりは高い給料設定にしている。 被雇用者にとったら、お給料の面だけでなく、「国際NGOに勤めている」ということ自体が立派なステータスになる。 たとえは良くないかも知れないが日本で言うならば「商社に勤めている」というのと同等のニュアンスがある。 NGO勧めの身分証明書を多少誇らしげに、知人に見せたりする者もいる。またそれだけではなく、実際に身を守る役割を 果たすこともある。ワウニアは政府支配地域で、軍や警察がその治安を守っている。住民は多くがタミル人だが、 軍人や警官はほぼシンハラ人であり、今でも各地に軍人や警官が立ち並んでおり、怪しいと思う人物に職務質問を行う 権限がある。その際にNGO勤めの身分証明を出すと、結構簡単に解放してくれるそうなのだ。まるで世界中の空港における 日本のパスポートと同じである。
 身分証明書以外にも、国際NGOで働くと言うことは、少し贅沢な事務所機能の中で仕事ができるという意味もある。 コンピューターやFax機、印刷機などは当然完備されており、彼らにとったらそういう機材を使いこなせるようになる スキルアップの機会なのである。これは、逆から見ると、AMDA としては人材育成を行っているということができる。 私見だが、いつかはこの国を去る者として「何が残せるか」を考えた場合、この人材育成は残せる財産(それも決して小 さくない)の一つである。

9.最後に

 さてさて、今回は事業内容を詳細に説明する、というよりは、一歩下がってその周囲にあるものについて思うところを 述べてみた。結局のところ「外国人」としては、やれることは限られているし、逆に「外国人」だからこそやれることもあり、 その中で有効だと思われることだけを、取捨選択していくしかない。地元の政府や市民の人にとっても、 自分たちのやり方と違うところで違和感を感じたり、 反感を覚えたりすることもあるだろう。当然のことである。地元と100%同じやり方をすれば、 この違和感は軽減されるかも知れないが、それでは外国NGOの意味がない。 スリランカには地元の NGOが何百とあるのだからその任は彼らが担えばよいと思う。 外国NGOと地元市民にとっては、こういう反発や違和感を覚えつつ、もう1歩踏み込んだり下がったりしながら、 その違いをより良いものをもたらすのに活用すべきなのだろうと思う。 少しこじつけかもしれないが、ある意味恋愛に似ているのではないだろうか。 最後になるが、自身の言葉で表現する努力をさぼり、詩人の言葉を借りてしめくくりたい。

リルケ 二人の人間の間で完全に何でも分け合うということはあり得ない。 そしてそれにも拘わらず、そういう共同の生活が営まれていると見える場合はそれは何かが狭められているのであって、 二人のうち一人か、或いは両方の自由と発達を阻む契約が取り交わされることなのである。 しかももっとも近い二人の人間の間にも無限の距離がやはりあることが理解され、それが受け入れられれば、 そしてもしこの二人が二人の間にあるこの距離を愛するに至るならば、 それは互いに相手の全体を広い空を背景に眺めることを許して、二人だけのまたとない生活が始まることになる。
1 タミルイーラム解放の虎。
 反スリランカ政府組織。
2 ワウニア県保健局




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