パキスタン

難民の帰還と今後の課題


AMDAクエッタ事務局 吉川 勝貴
AMDA Journal 2005年 2月号より掲載

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【9月15日】

アフガニスタン難民支援について語るとき、皆さん2001年ニューヨークで の9.11はご存知と思いますが、9.15という日付には馴染みがないことと思い ます。
 クエッタ事務所では、9.11と同じく2004年の9月15日は、重要な転換期を 意味します。この日、AMDAがクエッタを拠点に活動するバロチスタン州で は、UNHCRが新難民キャンプ1を閉鎖しました。この日付には諸説あり、 UNHCRがキャンプに隣接する事務所を閉鎖した日、キャンプ閉鎖に伴い AMDAのBHUスタッフが撤退した日など、多少のずれがありますが、9 月末に新難民キャンプはどこも事実上機能しておらず、難民として暮らし ていた人達はアフガニスタンへ帰還あるいは新天地へと移動していきまし た。あわせて、AMDAの活動も大幅に縮小することとなりました。私が赴 任した2004年8月31日から、2004年12月末までは、まさにクエッタ事業 に関しては激変の時期であったといえます。
 アフガニスタンと国境を接する、パキスタン・バロチスタン 州では、2001年の9.11とそれに続くアフガニスタン空爆後、多くの人々が難 民として国を離れざるを得ない状況となりました。そうした避難民の定住先 となったのが、いわゆる新難民キャンプです。反対に、旧難民キャンプと呼 ばれるところは、9.11以前、1970年代のソ連侵攻後の昔からの長い間の難民 の定住地となっており、現在もパキスタン各地に点在しております。こうし た旧難民キャンプでは、援助機関による医療支援や食料配給といった手厚い 支援はなく、住民の長年の自主的努力により、生活が営まれてきました。
 UNHCRでは8月末日を期限として、帰還を希望する家族の為に、帰還先に て食料・テント、交通費といった特別パッケージを用意し、帰還促進を支援 しました。一方で在留者の少なくなった難民キャンプは統合・廃止が進めら れ、給水がとめられたり、居住者の居なくなった家が取り壊されるなど、閉 鎖に向けて様々な変化がありました。
 9月15日までを猶予期間として、バロチスタン州の新難民キャンプはほぼ閉 鎖・統合されました。
 しかし、諸事情により、帰還もままならぬもの、パキスタン滞在を希望す るものも多くおり、そうした人々は、親戚・知人のつてを頼り、旧難民キャ ンプに身を寄せたり、一部はパキスタンの市内各地に流入してきたといわれ ております。AMDAのクエッタ事務所周辺でも、こうして、移動してきた人 々の住居が見受けられます。AMDAの活動拠点ラティファバードのキャンプも 帰還が進み、かつては1万人を数えた難民も2004年8月には人口1000人以下 に減少し、隣接するムハンマド・ケイルのキャンプと統合案が出されました。 移動も容易であり、環境もさほど大きく変化しませんのでUNHCR等関係者間 では楽観視されておりました が、難民たちはこの統合を受け入れませんでした。結果として、大多数がア フガニスタンへ帰還する選択をしたとされていますが、一部はパキスタンの 各地、および旧難民キャンプへの移動と考えられています。近隣であるにも かかわらず、住民がムハンマド・ケイルのキャンプとの統合を選択しなかっ た理由の一つに、民族の違いが挙げられます。ラティファバードでは北部系 のウズベク、タジク系といった少数民族が主に暮らしており、多数派パシュ トゥー系との同キャンプ居住を好まなかったとの意見もあります。こうした ところにも、多民族国家であるアフガニスタンの片鱗が見受けられる出来事でした。

 一方、AMDAはVRC事業(VRCについては、斉藤記事を参照のこと)を 支援し、帰還する人々の健康状態のチェックを行ってきました。V RCはアフガニスタンへの出発に備えた健康状態の最終チェックポ イントであり、国境沿いのチャマンおよびクエッタ北郊のバレリに あるセンターにて、AMDAはすべての難民が健康で故郷に帰るこ とができるよう、帰還準備にかかわってきました。
 キャンプの閉鎖に伴い、チャマンのVRCは9月に終了。バレリVRCは 冬季の帰還者減少にともない、12月26日をもって一時停止。2005年3 月1日より、再開予定となっております。対象者も、これまでの新キャンプ 居住者から、より広範に旧キャンプ居住者、および、クエッタ・カラチとい った都市部流入人口も対象に、母国アフガニスタンへの帰還を支援していく 方針です。

【キャンプ跡地と周辺住民への影響】

現在のラティファバード・キャンプ跡地では、水の供給も止まり住む者も なく閑散としています。キャンプ内のある部分は取り壊され、またある部分 は、土造りの家々がそのまま残されています。今も変わらず周辺には地元の 村人が居住、しかしながらキャンプ跡では難民帰還後、外敵のいなくなった 野良犬が急増し、狂犬病の原因になるほか、家畜を襲うなど問題となってい ます。また併せて、乾燥地帯とはいえ蚊の大量発生が顕著であり、マラリヤ の原因となっているなど、周辺地域に対する衛生状態の悪化が指摘されてい ます。国際機関の会合においても難民は帰還したものの、残された負の遺産 について語られることが多くありました。地元の人々の言葉からは、他国か らの難民は受け入れたものの、難民は去り、地元にさしたる利益を残さず、 一方で環境悪化の根本原因が残されてしまった、という捉えられ方があるこ とも否定できません。
 一方、現在もアフガニスタン難民が居住する旧難民キャンプの一つ、ジャ ングル・ピラリザイ難民キャンプでも、周辺の環境悪化が顕著になってい ます。ジャングルは現地語で、木の多い森を意味します、難民キャンプでの 煮炊き等、生活用途に木々が伐採されたため、木々の多い昔の姿は見る影も ありません。このまま難民の滞在が長期間続くと、壊滅的な状況となるのが 明白です。こうした、アフガン難民の居留地跡、また、現在の居留地および 周辺の環境悪化は、周辺住民の健康や感情にも密接に影響を与えています。 クェッタ事務所では、祖国・アフガニスタンへの難民帰還という喜ばしいニ ュースの一方で、受け入れ側のパキスタンでは、また違った側面があること にも注目していきたいと思います。

ひとけのなくなったキャンプから、BHUも撤退。2002年初頭の開設から、大勢の患者の 診察にあたり、出産の介助をし、子どもの発育を見守り、衛生教室を行なってきた。

2006年まで、アフガニスタンへの難民帰還を進める中、2004年11月に、パ キスタンの首都イスラマバードで開かれた、UNHCRヘルスコーディネーシ ョンミーティングでは、引き続き滞在する難民社会に対する活動と、彼らの アフガニスタン帰還後を見据えた活動が課題となっています。具体的には、 助産婦、コミュニティーヘルスワーカーといった、難民社会の中から自助努 力できる医療従事者の育成と、BHU運営能力の強化が挙げられます。
 また、難民キャンプのみではなく、周辺住民を対象にサービスの拡大が叫 ばれています。特に、AMDAの活動するバロチスタン州は、パキスタン全土 の約40%以上を占める広大な地域ながら、人口比率は約5%にすぎないと
ラティファバードキャンプ内BHUの壁に残されていた折り鶴のPEACE。
言われており、難民問題が与えたインパクトは他地域に比べ相対的に大きな ものとなっています。また、この地方の社会経済基盤の脆弱さは誰もが指摘 しており、特に医療サービスがほとんど行き届いていないことは残念な現状 であるとともに、その向上は重要な課題です。

 AMDAクエッタ事業では、これまで、新難民キャンプを対象にしてきた レファラル(救急・重症患者移送・治療管理)事業を、キャンプ閉鎖に伴い、 10月より、バロチスタン州内の旧難民キャンプを対象にして活動展開してお ります。2005年は、これに加えてバロチスタン州の地域住民をも対象とし て、遠隔地を対象としたレファラル事業に取り組んでいく計画です。
 難民社会への支援の充実と、援助動向の縮小とアフガニスタンへの移行。 難民キャンプと受け入れ側地域社会との間での、生活環境の不均衡。こうし た溝を埋め、隣国にとどまらざるを得ない難民の人々と長年に亘りそうした 難民を受け入れてきた地域住民双方が、互いに共生できる環境を整えてい くように支援を展開していくことが、2005年以降の課題といえます。
 引き続き皆様よりご関心を寄せていただけたら幸いです




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