ネパール

ネパール風まかせ …
AMDAダマック病院での90日


泌尿器科医師 若山 由紀子
AMDA Journal 2001年 6月号より掲載

 私が初めてネパールを訪れたのは、去年(2000年)の7月でした。アフガン難民プロジェクトが急遽終了し、派遣先のパキスタンで半ば呆然としていた時、同僚だった上住純子さんに誘われて、何となく行ってみようかなと思ったのがきっかけでした。その頃、ネパールはちょうど雨季だったにもかかわらず、パキスタンやアフガニスタンの荒涼とした山々を見慣れていた私には、飛行機の窓から見た木々の緑が、とても新鮮な印象で眼に飛び込んできたことを覚えています。何て美しい国だろう!…感動と共に、仏陀生誕の地、ネパールに足を踏み入れたのでした。しかし、その感動もつかの間、空港からカトマンズの街に出た途端、そのごみの多さにビックリしてしまいました。まるでごみといっしょに生活していると言っても過言ではないくらい、建物の周囲、空き地、道路、人間のいる所には必ずごみがあふれ、牛やブタや野良犬、時には人間が残飯をあさっている光景が、ネパールの日常の風景でした。「こんな衛生観念のない人達とは、ちょっと付き合えないなあ」と、潔癖症の私は、心のどこかに一線を画したのでした。

 二週間くらい遊んで帰ろう、と軽い気持ちで行ったネパールでしたが、「ブトワールとダマックの病院に一週間ずつ滞在していただけるなら、その間の生活費は工面します。」という鈴木俊介氏の甘い言葉に誘われ、当時お金の余裕なくケチケチ過ごしていた私は、犬がエサに飛びつくように、その話に乗ってしまいました。気が付くと、ツーリストビザの期限である一ヶ月が、あっという間に過ぎようとしていました。

 今から思えば、その時の貧乏が功を奏したとでも言いましょうか、いつの間にか私も、一般の観光客が行かないような安いダルバート屋(定食屋)さんに通い、6ルピーを5ルピーに値切って買った旬のキュウリに舌鼓をうち、ごみを景色の一部として生活していたのでした。きれい好きのこの私が !?どうして1ヶ月もの長い間、安穏とネパールの安宿で過ごせたのか、自分でもよく分からないまま、とりあえず8月上旬、大嫌いな報告書の提出と、面倒な事務手続きのため、後ろ髪を引かれるような思いでネパールを後にしました。


AMDAダマック病院回診風景

 帰国してまず気づいたのは、日本人がとても無表情だということでした。電車の中も、通りを行き交う人も、みんな同じ仮面を被ったように表情がないのです。皆が皆、忙しそうに足早に歩いていて、他人とはかかわりたくないというふうに見え、一瞬、自分が場違いな所に来てしまったような錯覚を覚えました。ネパールでは、行きずりの人にものを尋ねても、大抵は嫌な顔一つせず、気持ち悪いくらい親切に教えてくれるのですが、日本では普通、見知らぬ人と眼が合ってもすぐに視線をそらすし、道で声をかけるのは客引きのおじさんか、ストーカーくらいなものですから、やたら親切な人には、逆にこちらが気を付けなければなりません。が、それにしても、帰国直後は、普通に道を歩いていても、(別に誰かに何か言われたわけでもないのに)やけに冷たい人達ばかりだなあ、という気がしました。スーパーに買い物に行った時も、「おや?」と思ったことがありました。今まで何の疑問もなく野菜を買っていたのに、あまりにも同じ色形をしたものがそろっているので、返って不自然で人工的な感じがして、とても違和感を覚えました。ネパールで売っていた野菜は、色も形も個性たっぷりで、それを丹念に自分で選り出しながら買うのですが、日本のスーパーでは、同じ値段の所にあるキュウリは、まるで研究室の中で測って作ったように、全て同じサイズの同じ形をしているのです。このような違和感は、長い間日本に暮らしていて、感じたことがありませんでした。たった1ヶ月ネパールにいただけなのに、日本がまるで違った国のように見えたのです。何て画一的な社会に生きていたんだろう…というのが、帰国後の私の正直な感想でした。

 ネパールという国は、確かに貧乏な国で、道路もない、電車もない、もちろん電化製品も一般には普及しておらず、シャワーひとつ浴びるのに苦労するような国ですが、何か日本人が忘れてしまった大切な事を思い出させてくれる国なのかもしれません。人はそれぞれ違っていて当然、お金を稼げる人が稼げない人の面倒をみるのはあたりまえ…夏は暑くて冬は寒いのが当然、キュウリは大小曲がっているのが普通なのです。

 その後、ネパールの余韻に浸りながら、日本で毎日のらくら暮らしていた私に、鈴木俊介氏から改めて、ダマックのAMDA病院に行ってくれないかという話が来ました。海外での活動経験が豊富でもない私に派遣要請が来るぐらいだから、よっぽど行く人がいないんだろう、と思いつつ、以前に見たダマックの病院に思いを馳せていました。たった一週間滞在しただけだったけれども、そこは正に「野戦病院」という言葉がぴったりの病院でした。ネパールはどこでもそうですが、建物の中は薄暗く、狭い廊下にもベッドが並び、時には通路の床にまで人が寝ている…入院患者の生活用品と医療器具が、ベッドの回りに雑然と置いてあり、トイレも暗くて悪臭に満ちている、そんな情景が思い出されました。また、同じネパールにある病院でも、ブトワールの子ども病院(Siddhartha Children and Woman Hospital)と違って、マネージメントを含めた全てを、ネパール人の手で行っているため、どうも日本人のやり方とは違うなあ、と感じたことが何回かありました。

一体、私が行って何ができるのだろうか?ネパール人自身の手で現に機能している(システムとして一通りできあがっているという意味)病院に、突然外国人が入っていって、うまくやっていけるのだろうか?スタッフだけでなく、地域の患者さん達に受け入れてもらえるのだろうか?いろいろ悩んでいる私に、かの鈴木氏は追い討ちをかけるように言いました。「先生、ネパールでは医者のほとんどがカトマンズに集中しています。ダマックのような地方の病院には、ネパール人でさえ行きたがらないのです。そんな地域に日本人医師が行くだけでも、病院のスタッフには刺激になりますし、地元の人も病院に関心を持ってくれます。たとえ数ヶ月であっても病院のためになるのです!…あ、それから、3ヶ月以上滞在していただけるなら、ネパールにいる間の生活費は工面しますから。」なんだ、いるだけでいいのか…というわけで、再び犬はエサに飛びついたのでした。

 私にとって、本当に幸運だったのは、実際にネパールに行く前になって、もう一人の物好きな日本人ドクターが見つかったことでした。全く知らない土地で、決して流暢とは言えない英語と片言のネパール語で3ヶ月間を過ごすストレスを考えると、例えひと言ふた言でも日本語で意志を通じ合える相手がいるのは、とても心強いことです。しかもそのドクターは、最初から一年通しで行くというのですから、私とは気合の入り方が違います。一人より二人の方が、仕事もしやすいだろうし…風はネパールに向かって吹いているように思いました。一度行った所だし、私より1ヶ月先行してダマックに行っているという、気合の入った日本人ドクターをあてにして、私は何の気負いもなく、あこがれのシンガポール航空で空の旅に出たのでした。

 ネパールでの最初の仕事は、カトマンズにあるTribhuvan 大学のTeaching Hospital で5日間の研修を受けることでした。この病院は、日本の国立大学付属病院と同じく、国内でも指導的立場にある病院で、建物のほとんどは日本の援助で建てられたという、りっぱな病院でした。教育は、基本的には英語で行われ、ヨーロッパからの学生研修も受け入れているようでした。私は主に泌尿器科を回らせてもらいましたが、高価な器具、と言っても、日本ではもう古いタイプの膀胱鏡や尿管鏡などを、まるで神棚に供えるかのように、それはそれは大事に扱っているのが、とても印象的でした。研修中は、実際に臨床に携わったわけではありませんが、教授から若いドクターまで、ことあるごとに「こういう場合は日本ではどうしている?」とか「このケースではこの治療方針で間違ってないか?」と尋ねられ、そのとおりだと答えると、「フン、やっぱりね。」と安心と得意の混じった笑顔になり、反対にうっかりネパールにない薬品名を口にすると、「ネパールは貧乏だから、今度あなたが来る時、ぜひ日本から持ってくるように」と約束させられそうになったりしました。また、地方の中堅病院からは、部長クラスのドクター達が数人、内視鏡の勉強のために来ていたのでしたが、彼らは真面目な反面、機械類に馴染みがないせいか、あるいは自分が学ぶより日本人を連れて帰った方が早いと判断したのか、スキあらば肩書きだらけの名刺を差出し、「ダマックに行くより、ウチの病院に来てくれればもっといい条件で…」とおいしそうな話を持ちかけられ、水面下では、半ば引っ張りだこの状態でした。ふと、「AMDAよりいいかな…」と心が揺らいだとか、揺らがなかったとか…。日本では、内視鏡を使うような手術は、どこの病院でも日常茶飯事に行われていますが、ネパールではまだまだ高価な医療器具であるため、それを自由に操れる医者は貴重な存在なのでした。

 甘い誘惑には眼もくれず、外来、病棟、手術、検査、カンファレンスなど一通り回らせていただき、研修の終わる頃には、道を誤ることなく、無事に泌尿器科全体の流れを把握するに至りました。例えネパールの教育のほとんどが外国からの輸入教育であったとしても、医療先進国に少しでも追いつこうとする彼らの熱心さが、ひしひしと伝わってくるような5日間でした。教授・助教授レベルのドクター達は、それぞれ進取の気性に富み(新しい物好き?)、ヒマがあれば私のような未熟者にまでいろいろ声をかけてくれ(教えたがり?)、日本の知識を自分のものにしようとする貪欲さ(好奇心まる出し?)が大いに感じられました。

 そんなわけで、一応研修も終え、いよいよダマックに向かう日がやって来ました。こんなことを言うと、真面目にボランティアに携わっている方々に叱られそうですが、ダマック病院に行くに当たって、私はあまり大きな目標とか目的を持っていたわけではありませんでした。強いて言えば、絶対に何かやることがあるはずだ、という思いだけでした。自分が今までやってきた日本のやり方を、無理やり押し付けるようなこともしたくありませんでした。「歓迎されようがされまいが、とにかく現場を見ることだ。全ては、現場の人達が何を本当に必要としているかを知ってからだ。」と自分自身に言い聞かせ、再びダマックへの旅に出たのでした。

 しかし、Biratnagar 空港に着いた途端、未知の人達に対する私の一抹の不安は、どこかに吹き飛んでしまいました。飛行機が予定より2時間も遅れたにもかかわらず、見覚えのあるドライバーのおじさんが、満面の笑みを浮かべて空港に迎えに来てくれているではありませんか!単純な私は、そのおじさんの心からの笑顔を見ただけで、心底ホッとした気持ちになり、「何とかやっていけるかもしれない」という思いを抱きました。歓迎は、おじさんだけではありませんでした。病院に着いてからも、たった1週間しかいなかった日本人を、スタッフの人達はよく覚えてくれていて、会う人ごとに、最高の笑顔と挨拶で迎えてくれました。ネパール人のスタッフに混じって、日本人の外科ドクター高野先生も新しくなったゲストハウスで「ようきたな。」と関西弁で迎えてくれました。でもその頃の高野先生は既に半分現地人化していて、うっかりするとネパール人との区別がつかなくなっていました。

 「いよいよ仕事が始まる」という緊張感と、「受け入れてもらえるかな」という不安をいだきながら、最初の1〜2週間はほとんど無我夢中のうちに過ぎてしまいました。なぜ今これをするのだろう、あるいはなぜしないのだろう、と分からないことだらけでしたが、とりあえず高野先生について仕事の流れを教わりました。ネパール人の若き青年医師 Dr. Rajendra も、患者の訴えをこまめに通訳してくれたり、ネパールの言葉や習慣についても教えてくれたりして、とても大きな助けになってくれました。

 私は泌尿器科医ですが、例えば日本では、尿路結石症の人には「ESWL(体外衝撃波結石破砕術)をやりましょう。」とか、前立腺肥大症の人には「TURーP(経尿道的前立腺切除術)をやりましょう」と簡単に言えたものが、ここでは極端な話、針と糸しかありませんから、自分の専門の仕事をするというより、外科一般の仕事を手伝う機会が断然多くなりました。電気メスもあるにはありましたが、スイッチを押すと、ただただ焦げるばかりで、ちっとも凝固機能を発揮しない珍しいものでした。「この電気メスのいい所は、深い部位の処置をする時、やたら火花が散って照明代わりになるところかな。」と照明器具も満足にない暗い手術室で高野先生は言いました。彼は何事に対してもプラス思考のとてもいい先生でしたが、暗い視野での(電気スタンドの親分のような、「無影灯」にあらず、「有影灯」が一つあるだけ)外科手術は、想像以上に困難なものです。「先生、やり難いでしょう。」と私が言うと、高野先生は「弘法、筆を選ばず、高野、道具を選ばず。」という名言を残されたのでした。

 初めのうちは、何をやればいいのか分からずいろいろ迷いもありましたが、ある日、ダルという豆のスープを全身にかぶって大やけどをした女性が入院してきました。主に胸腹部と両側大腿前面の2度から3度の熱傷でした。しばらくは毎日のドレッシングが必要でしたが、範囲が広く、看護婦さんが病棟で簡単にできるものではないので、手術室に来てもらってデブリートメントや消毒を行っていました。入院当初、彼女は処置が始まるやいなや「アイーッ!アイーッ!」と泣き叫び、消毒のイソジンが皮膚に触れる度に、今にも死にそうな悲鳴をあげていました。それは見るからにつらそうで、スタッフの多大な同情を集めていましたが、そのうち傷もだんだん癒えてきて、明らかに傷は良くなっているのに相変わらず「アイーッ!アイーッ!」と泣き叫ぶものですから、だんだんスタッフの態度も冷たくなっていき、しまいには誰も寄り付かず、私一人で処置をしなければならないこともありました。創感染もなくなり、ようやく彼女が退院して数日たったある日、私と高野先生が、朝の回診をしに病棟へ行こうと歩いていると、見覚えのある女性が外科外来の前に座っているではありませんか。思わず二人で「おーっ!来たかア!」と声をかけると、彼女が私達を見て、ちょっと照れたような、とてもいい笑顔を返してくれたのです。処置の時はあれほど泣き叫び、回診のときも硬い態度をとっていたのに、今、私達を見て微笑んでいる…こういう瞬間があるから、医者ってやめられないなあ、と思いました。何も泌尿器科でなくてもいい、手術でなくてもいいのだ、医者としてやるべきことはそれだけではないのだと。それからはあまり悩んだり迷ったりすることなく、比較的すんなりと仕事ができるようになりました。人種が違おうと、宗教が違おうと、回復して元気になって欲しいという気持ちに変わりはないじゃないかと思ったのです。

 医者としての真摯な思いを秘めながら(?)、しばらくは平和な日々が続きましたが、病棟にはまたしても似たような女性が入院してきました。「アイーッ!」のおばさん第2号です。今度は交通事故で、右下腿の皮膚のほとんどが欠損し、一部は筋肉も挫滅していました。高野先生の適切な一次治療の後、やはり毎日のドレッシングが必要となり、連日病棟から処置のために、家族に抱えられて手術室に運ばれて来ました。彼女はベッドで寝ている時はケロッとしているのですが、移動する時になると必ず泣くのです。慣れてくると、スタッフはその声が聞こえてからドレッシングの準備を始め、だんだんその声が近づいてきて、ドアを開けて入って来るときには準備万端、「ハイ、どうぞ、いらっしゃいませ!」とばかりに第2号を迎えるのでした。彼女の場合は、皮膚の移植が可能になるまで近くのクリニックで処置を受けることになり、退院していきました。

 高野先生も外科の仕事ばかりしているのではなく、時には整形外科医になったり、歯医者さんに変身したりと、様々なケースを扱っていました。簡単な抜歯ならよいのですが、ある時、近所で歯科治療を受けた後、顔が腫れてきたという、巨人の槙原クンそっくりのお兄さんが入院して来ました。切開・排膿治療の後、炎症も治まったはずなのに、彼は一向に元気にならず、まるで重病人のように、疼痛のため暗い顔をしてベッドに臥せっていました。「何かおかしい」と思った高野先生は「口腔外科のある病院に送れ!」と指示し、槙原クンは元気のない暗い表情のまま転院して行きました。その1週間程あとのことだったでしょうか、「槙原クンが転院先の病院で死んだ」というショッキングなニュースが伝わってきました。実は、彼はAIDSだったのです。検査設備が効果的に活用されていないダマックの病院では感染症の有無を知ることも困難で、手術や処置の際にいちいち調べることもありません。一同、暗い気持ちで彼に同情すると共に、改めて仕事の危険性を認識させられた事件でした。

 ネパールでは、日本ほどプライバシーという観念が確立されていないので、誰かの診察をしていると、いつの間にか関係のないギャラリーに取り囲まれて、身動きできない状態になっていることがしばしばあります。いつだったか、高野先生と二人で歩いていると、病院スタッフの一人が「先生、ちょっとこの人のX線写真を診て下さい!」と、ある骨折患者のレントゲン写真を持って後を追いかけてきたことがありました。「オレ、骨はよく分からんよ。」といいながらも、写真を太陽にかざしながら、その場で即席カンファレンスが始まりました。気が付くと、周囲には関係のない人達が取り囲み、その中でも、10歳くらいの少年が腕組みをしながら、高野先生よりも真剣な眼差しでレントゲン写真に見てうなづいていたのでした。病棟でも、別の入院患者の家族が必ず一人や二人は回診につき、時には口ごもっている患者の代弁者となって、こちらの質問に答えるということもあり、当の患者自身も「そうそう、そのとおり。」とばかりにその人を見つめ返している、という場面もありました。スタッフも一応は、「病室の外に出て待ってて下さい!」と注意するので、その時は「エヘッ、見つかっちゃった!」とばかりに素直に(スゴスゴと)出ていくのですが、次の日はまた回診についたりして、特に反省している風でもありませんでした。日本では考えられないことだけに、「これってお国柄かなあ。」とつくづく思ったものでした。

 「日本では考えられないこと」は、他にもたくさんありました。ある時外来で、巨大な魚の目を作ったおじいさんが、ひと通りの診察を終えたあとも、何だか納得の行かない様子でスタッフと話し込んでおり、なかなか帰ろうとしないということがありました。どうしたんだろう?と思って、やり取りを聞いていると、どうやら「感染するから、履物をはいて足を清潔にしなければならない」ということがよく理解できないらしいのです。彼にしてみれば、この歳になるまで裸足同然で生活してきたのに、「今さらなぜ!?」というところでしょうか。かの若き青年医師Dr. Rajendra も、この時は苦労して何度も繰り返し説明していたのでした。また、便秘で来たイレウス寸前の4歳女児の場合は、「便秘がひどいので、以前にもらったenema(浣腸)をお湯で薄めて飲ませた。」という親の言葉に、こちらがひっくり返りそうになったこともありました。「何があっても、ここでは不思議ではない・・・」ボソッとつぶやいた高野先生の言葉が、妙に印象的でした。

 ビックリするような事は数々体験させてもらいましたが、様々な困難を乗り越えながらも、ダマック病院では今までできなかった全身麻酔による手術がほぼルーチンで出来るようになり、術後の全身管理も高野先生を見習うネパール人医師が増え、以前この病院に来た時よりも明らかに改善しつつありました。もちろん病院としてのホスピタリティの問題や廃棄物処理など問題は山積みですが、スタッフ達は日本人がすることをそれとなく見ていて、良いと思ったことは何時の間にか取り入れているのでした。もちろん言うべきことははっきり主張しなければなりませんが、飛び入りの外国人として何時の間にか真似されていることを発見するのは、一つの喜びでもありました。


全身麻酔下での手術(右から二人目筆者)

 そうこうするうちに、患者も次第に増え、高野先生や他のスタッフと一緒に仕事をする毎日が楽しくなってきて、「もう少し期間を延長して、ダマックにいようかなあ」と真剣に考えだした頃、勤めていた日本の病院から突然ファックス(のコピー)が届き、3月いっぱいで帰国せざるを得ない状況になってしまいました。最初から3ヶ月という約束だったにせよ、高野先生始め、病院のスタッフやゲストハウスのメンバー、顔見知りになった近所の人達と別れるのは、とてもつらいことでした。「世界ウルルンなんとか・・・」という番組以上に胸に迫るものがありました。しかしまた、ダマックで経験したことは日本に帰っても必ず役に立つだろう、という確信もありました。こういう経験は決して眼に見えるものではありませんが、一生私の財産になる…今、現に復職してからも実感として感じている今日この頃であります。




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