ネパール

信頼を深めたい─知的障害児
(デイケアセンター)への支援


AMDA Journal 2000年 12月号より掲載

 車から飛び降り、急いで狭い入り口から通路を抜け中庭へ出ると、 すでに大勢の人々がネパール版「こどもの日」を祝うセレモニーの中にいた。今年の雨季は若干長引き、その当日も大粒の雨が、時折仮設テントの表面を激しくたたきつけた。 しかしセレモニー会場は、子どもとその父母、そして施設の運営に参加している人々の熱気で包まれていた。

 8月20日、一般の人にとってみれば他の一日と変わりのない、極めて普通の日であったかもしれない。だが、その 会場に集合した人々にとっては特別な日であったと、容易に確信が持てた。会場の子ども達は、自分の気持ちを表現することに困難を抱えている、 もしくはそれをストレートに表現できない、あるいは精神的に様々な障害を持ったいわゆる知的障害児といわれる人達である。しかし、彼らと 隣同士の席に座り目を見つめ合うと、その純粋な瞳に自分の心が洗われるような気がした。

 この日は、子ども病院のビーマル院長と共に、彼らの招待を受けお祝いに駆けつけた。若干遅れたが、それほど迷惑をかけることなく着席することができ、それから延々と続く来賓のスピーチを聞くことになった。 真剣な大人達の表情とは反対に、嬉しそうな子ども達の表情がまぶしい。時折いたずらをする。勝手に席を立つ子どももいるが、そこにいる大人達は彼らの行動を理解し、最低限の叱責にとどめている。

 スピーチが終了し、やがて私の名前が呼ばれ、ギフトのプレゼンター役に任命された。 すでに天井からの雫が私の背中を十分濡らしており、その席から立ち上がることに何の躊躇もなかった。 35名くらいだっただろうか、一人一人に対して「おめでとう」と声をかけ、ビニール袋に入ったお菓子を手渡した。 彼らの手を包み、単に言葉だけでない温もりを伝えたかった。その後AMDAネパールを代表してビーマル院長が前列に立ち、いよいよ啓発事業支援補助 金の授与が行なわれた。この施設支援をどのようなかたちから再出発させることができるか、彼らと接触を持ち始めてからすでに半年が過ぎようとしていた。



AMDAのこれまでのデイケアセンターへの関わり
 AMDA高校生会は平成7年(1995年)9月に発足、平成9年8月には、 25名のメンバーのうち6名がネパールを訪れ、障害児学校やストリートチルドレンなどの現状を見て回った。 帰国後、AMDA本部において障害児学校建設への支援が提案され、高校生会はそのための活動を開始した。 当初の建設費用は第1期工事分として300万円が見積もられた。全日信販(株)や操山ライオンズクラブから大口の寄付を頂戴すると、 高校生会は勇気付けられ、「100万円ぐらいは我々で」と街頭募金を中心に多方面へ寄付を呼びかけた。今年7月31日付の残高は2,928,693円である。

最初は新たな障害児施設を病院敷地内に建設し、病院で治療できなかった子どもを収容する施設として運営する案が検討されたが、 やがてブトワール市内の障害児施設を移転させる案に変更された。 1998年11月、子ども病院の開所式が行なわれた際、障害児学校は子ども病院 の付属学校と位置付けられ、学校の起工式も行なわれた。しかし、建設の見通しは立たず、購入された一部のレンガは病院敷地内に野積みされている。



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