とろけそうになるほどの強い日差しと太陽。人々の汗の匂いが混じった、むっとした熱気。暑さでボーっと
する頭で、ふと見上げた所に目の覚めるような眩しいピンク色をしたブーゲンビリアの花を見ると、一瞬、
まるで楽園にいるかのような錯覚に陥った。
朱色の袈裟をまとって托鉢に向かう僧侶達。金色に輝くパゴダ。薄暗く、ひんやりとした高床式の僧院には度々足を運び、人々と村の今
後について話し合い、また、他愛もない世間話をした。
鮮やかな配色の、美しい手織り布。砂糖椰子の樹液を煮詰めてつくる、ジャグリーという名の甘い砂糖菓子。どれもこれも手が込んでおり
、それらを作るのには膨大な労力と時間が必要であるが、黙々と作業をする女性達を見て、なんとなく切なくなった。
プライマリーヘルスケア
ミャンマーでは、国際協力機構(JICA)の委託を受けて2002年7月から2005年6月まで、「母と子のプライマリヘルスケアプロジェクト」を
実施してきた。
プライマリーヘルスケアは、「すべての人に健康を」という目標を掲げ、 1978年にアルマアタ宣言で発表された概念である。今から約3
0年も前に提唱されたものが、今の時代に使えるものなのか?1978年と言えば、第2次オイルショックがあった年。1978年と言えば、サザン
オールスターズが「勝手にシンドバッド」でデビューした年。そして私が1歳の誕生日を迎えた年でもある。しかしプライマリーヘルスケア
の内容は決して時代遅れなどではないことが、このプロジェクトに関わることによって証明された。
プライマリーヘルスケアは、簡単に言えば、一人一人が健康について考え、健康を守ることができるシステムを地域のみんなでつくりま
しょうということ。そのためには、その地域に住む人々一人一人の協力が不可欠であり、時には彼らの意識改革が必要になる。
ミャンマーの「母と子のプライマリーヘルスケアプロジェクト」では、ミャンマーの中央乾燥地と呼ばれる地域にある3市をカバーし、
保健施設の整備、基礎医薬品の供与、栄養給食プログラムの実施、安全な水の供給、そして地域開発などを行ってきた。活動内容が多岐に
渡る上、ミャンマーでは移動や活動の内容に関して様々な制約があり、突然の変更や中止を余儀なくされた場面も多くあったため、何度も
壁に当たっては道を変更し、再度戦略を練り、また突き進んで行くという連続だった。
しかし、勤勉なプロジェクトスタッフと、問題に果敢に取り組み、村に希望をもたらしてくれたコミュニティの人々がいてくれたお陰
で、このプロジェクトは大きな成功を収めることができた。
プロジェクトの一員としてミャンマーに派遣された私は、幸いにも、事業開始の第1日目から終了する日までの3年間、1096日間の出来事
を、間近にして見ることができた。
はじまり
正直言って、フィールドでの生活環境は決して整っているというわけではなかったし、まさに「裸一貫」での幕開けに近いものだった。1日
目は、テーブルと椅子が一つずつのだだっ広い事務所で過ごした(夜は幽霊が出るという噂に怯えながら)。それから部屋に電気配線をし
、家具をデザインしてオーダーする所から始まり(ミャンマーの地方では、家具は全て木製のオーダーメイド)、バス・トイレをキッチン
に改修したり(今のキッチンに便器があったことはあんまり人に言っていないのだが、ここで告白)、事務機器を購入したりするうちに何
ヶ月も過ぎた。また、当時はお湯を用意するためには炭で火を熾さなくてはならなかったし(お陰様で現在は、キャンプの時には炭熾し名
人である)、電気が来なくて暗黒の夜を過ごすことも、度々あった(その時、私は電気を発明したエジソンよりも、ろうそくを発明した人
の方が偉大であると感じた)。また、食中毒や熱射病にかかり、異国の小さな部屋の片隅で1人寝込んでいるととても心細くなり、しかも
そんな時に限って温かい家族や友人が側にいる夢を見るのだった。こんな生活面での不便さはあったものの、村の人たちを相手にしたプロ
ジェクトの活動はとても刺激的だった。もちろん、楽しくうれしい場面だけではなく、悲しく辛い場面も多くあった。ミャンマーの村落部
では、貧しさゆえに保健医療施設を訪れる機会に恵まれない人が多くいる。頭では十分に分かっていても、実際にその場面に遭遇する度に
大きなショックを受け、やりきれない思いになった。
貧しさゆえに
プロジェクトの対象村は街から遠く離れていて、少し道を入ると舗装されていない砂漠か砂浜のような砂地の道 が続く。タイヤが砂に埋
まってしまうため、通常の車では走ることができない。その中を、病気になった人々とその家族は、牛車もしくは徒歩で2時間から3時間か
けて保健センターや病院へ向かう。しかし、ようやく辿り着いた保健センターには医療器具や薬が十分になく、結局たらい回しにされてし
まう。最悪の場合には、患者の状態が途中で悪化したり死亡し、やむを得ず村に引き返すなどということもある。そういった厳しい環境に
ある村落部で、AMDAは地域医療従事者と協力して行う協働型巡回診療を行ってきた。医師が1名、看護師もしくは助産師が1名の小さな診療
所だが、トレーニングを受けた住民ボランティアの人たちが薬を準備したり記録をしたりと、村の人たちが主体となって運営してきた。そ
の巡回診療には、様々な患者がやってきた。ビタミン不足で、歩けなくなった女性は、ビタミン注射を数ヶ月間受け続け、歩けるようにな
った。腕にできたグレープフルーツ大のこぶを4 0年間もそのままにしてきた老人は、簡単な手術でようやく煩わしさから開放された。顔
面にガンを患った少女は、手術でも治療することができないことがわかり、そのまま村に戻っていった。難病を患った子どもを連れてきた
夫婦は、手術が必要だと言うと、「手術は絶対しません。この子は1歳まで生きられないと言われたけれど、もう3歳まで生きて来たんで
す。それだけで、私達は幸せです。」と言って、子どもを連れて帰って行った。また、妊娠中毒症で意識不明の状態で運ばれてきた妻を
県立病院に搬送しなければならないと知った夫は、「病院に行かせるだけのお金はないし、貸してくれる人もいないんだ。第一、妻が入
院して俺が付き添ったら、収入が全くなくなるじゃないか。入院は絶対にさせない。」と怒って帰ろうとした。その夫を医師が1時間に渡
って説得して、ようやく妻を搬送できたこともあった。
貧しさゆえ、病院に行けない。薬が買えない。家族を看病するだけの余裕がない。病気になると収入がなくなるので、多少体調が悪くて
も、民間療法を試し、偽医者に頼り、仏様にお祈りをして毎日無理をして働きに出る。診療所に来る頃にはいよいよ悪くなっていて、手遅
れである患者も少なくない。そして、そんな状況を目の当たりにした私は、奇麗事では済まされない事実、人の命にも値段があるのだとい
うことを知った。恵まれた環境の中で育ってきた私には、あまりにも愕然とする事実であったが、これはミャンマーの村落部においてはあ
りふれた日常の姿なのだった。
夢と希望と
プライマリーヘルスケアプロジェクトでは、栄養不良児とその母親を対象にした栄養給食プログラムも行ってきた。日本の学校と同じよう
に、給食費の一部は母親達が負担をするが、内容は私達が考えるただの「給食」ではない。給食を作る調理師がいるわけでもなく、栄養士
がいるわけでもない。献立も調理も全て、参加する母親達が行うのである。また、子どもの成長や栄養改善の状態を見るため、母親達が自
ら自分の子どもの体重を測り、身長を測り、健康チェックをして、その記録をカードに書き込んでいく。毎週行われる栄養指導セミナーに
出席し、子どもの成長記録を発表する。栄養指導セミナーでは、食物や栄養に関することだけではなく、一般的な病気の予防や対処方法、
女性の健康などについても学ぶことになっている。そして、 4ヶ月間の栄養給食プログラムに参加を続けてきた母親達は、プログラムを
終了する頃にはすっかり皆団結していて、最終的には村の保健活動を担う「母親グループ」としての活動を開始し始めた。
母親グループは、予防接種の際に医療従事者の手伝いをしたり、トイレ建設キャンペーンに参加したり、また、コンドームやホルモン注
射などによる家族計画を推進したり、一般的な病気に関する保健教育を行ったりと、活発に活動を行っている。また、メンバーは自主的に
月々少しずつお金を出し合うグループ貯金をしており、その貯金で緊急患者を病院に搬送したり、家族計画に必要な薬を購入するためのお
金を貸し出したりしている。
ある日、私は1人のメンバーの家でお茶を飲みながら話をしていた。これまで農作業と子育てのみに従事してきた彼女は、栄養給食プロ
グラムに参加してからは村の保健活動にも参加するようになり、リーダー的存在にまでなっていた。そんな彼女が、楽しそうに母親グル
ープの活動の話を聞かせてくれた。その中で、彼女はこれまでにない新しい考えを提案してきた。「今、グループのみんなで少しずつ貯金
をしていて、まだまだ足りないかもしれないけど、大分貯まって来ているのよ。それで、みんなとも話したんだけど、このお金を子ども達
の教育のために利用しないかって。私達はきちんと学校にも行けなくて悔しい思いを沢山したけど、子ども達には勉強させたいし、学校に
も行かせたい。来月には休みが終わって学校が始まるし、その時にはみんなお金が必要で、お金がなくて子どもを学校に行かせることがで
きない人たちも沢山いるのよ。村のことや母親のことは、私達にしか分からないでしょう?この教育基金を始めることが、今私達が必要と
していることなの。」いつもニコニコしているだけで、決して自分達の考えや気持ちを表すことがなかった彼女達が、そして栄養給食プロ
グラムでは、恥ずかしがって何も人前では何も言えなかった彼女達が、今は自ら行動しようとしている。私は彼女の言葉を聞いた瞬間、と
てもとても感動して、思わず涙が出そうになった。
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食事前の手洗いを実施する母子 |
母親たちが自ら子どもの体重を計測する |
終わりに
長期で途上国に生活したことがなく、最初はミャンマー語で「ありがとう」も言えなかった私が、3年間ミャンマーで生活し、今では村の人
たちと普通に会話が出来るまでになったのも、やっぱりこの国の人々のために何かをしたい、ミャンマーという国をもっと知りたい、人々
ともっと話したい、という気持ちがあったからだからこそと思う。タマリンドの木の下で、村の人たちと語り合った、その年の雨のこと、
畑の作物の成長のこと、村に古くから伝わる言い伝えのこと。椰子の葉と竹でできた小さな家の中で、母親達とおしゃべりをした。家庭の
こと、子どもの成長のこと、近所のうわさ話。人々と話すこと、そしてコミュニケーションを取ることにより、言葉だけでなく、多くのこ
とを学ばせてもらった。また、住民参加がこれまでにない形で取り入れられた事業の中では、多くの困難があった。その中で、3 年間同じ
目標に向かって、時には互いに衝突しながらも共に進んできたプロジェクトのスタッフたちは、私の「戦友」だった。彼らがいてくれたか
らこそ、様々なチャレンジができたし、めげずに最後まで任務を遂行できたと思う。本当に、心から、感謝している。そして、またいつか
、ミャンマーの太陽とパゴダと人々に会いたい。
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