ミャンマ−

果敢

AMDAミャンマー 吉田 直子
AMDA Journal 2004年 12月号より掲載

果敢の歴史は、あまり人の知られるところではない。3回目の現地視察を通じて 、果敢の歴史を物語る一冊の本との出会いがあった。中国語で書かれたその本の名は、「果敢−」。

果敢の歴史

今は昔、ミャンマー東北部と中国雲南省の間に「木邦」と呼ばれる地域があった。木邦は、中国の元王朝時 代に中国西部とミャンマー東北部に勢力を拡大した。明王朝のはじめ、「木邦宣慰使」が派遣され、木邦は 表面上、中国に臣服することになった。しかし、事実上、自治が行なわれ、木邦は半独立状態を守った。当 時、果敢は、首都の老街市に数本のケシの樹があったことから、「麻栗(中国語でケシの意)」と呼ばれ、 木邦に帰属した。その100年後、果敢はケシの栽培により、繁栄の時代を迎えることになる。
 1887年、木邦は英軍のビルマ北進により占領され、当時木邦の一部であった果敢は、正式に英国の植民地 となる。現地に駐在した英国人は、麻栗の地を「果敢(Kokang)」と称した。第二次世界大戦中には、日本 軍が果敢に侵略し、英軍の支配に取って代わるが、後に激しい抗日運動に直面することになる。
 1948年、ミャンマーは、英国より独立を勝ち取る。アウンサン将軍の指導の下、パンロン会議が開催さ れ、果敢は正式にミャンマーに帰属することになる。パンロン会議は、多民族・共存共栄の理論に象徴さ れ、果敢は、他の民族が居住する地域と同様の政治的地位が認められる。

しかし、そうした動きは60年代初めのクーデターによって大きく軌道修正を迫られる。1962年以降、「ビ ルマ式社会主義」の下で、ビルマ人中心の政策や急速な国有化政策が推し進められるが、それがミャンマー 全域に反政府活動を生み出す最大の理由となる。
 1970年代、果敢は、抗争の時期に突入する。1969年、中国共産党の支援を受けたビルマ共産党が結成さ れ、果敢は、反政府勢力の拠点となる。1980年代の終わりにビルマ共産党の下級兵士による反乱が契機と なり、党の支配体制が崩壊するまで、ビルマ共産党は中央政府に対する抗争に明け暮れる。ケシの栽培は ますます繁栄し、反政府活動の資金源となると同時に、中央政府の創りあげた反政府勢力に対抗するため の治安部隊から、後に「麻薬王」を生み出すことになる。
 1989年、果敢自治区とミャンマー政府の間に和平が締結され、半世紀に及ぶ戦乱の歴史に幕が下ろされる 。また、1993年には、100年来のケシの栽培に終止符が打たれる。

果敢とAMDA

果敢の長い歴史の中で、AMDAと果敢の関係はいま始まったばかりである。本稿はその歴史の1ページを紐解 いていく。
 AMDAは、2004年の7月初めから、果敢において、外務省と世界食糧計画(WFP)の協力の下で、「社会的 弱者のための緊急食糧支援」を、満楽と小街地区の30村を対象に行なっている。緊急食糧支援は、脆弱な人 々への緊急食料支援,学校給食活動、フードフォワークの三本柱からなる。脆弱な人々への緊急食料支援で は、65歳以上の老人、障害者、慢性疾患患者、未亡人を対象に毎月15キロの米を配布している。学校給食活 動では、小学生児童1人につき11キロの米を毎月支給している。フードフォワークでは、1人1日6時間から7時 間の労働対価に対して、3キロの米を支給する予定である。
 フードフォワークは、現在、準備段階にあり、コミュニティーにおけるニーズを把握するために、参加型 行動計画(Participatory Learning and Action:PLA)のワークショップを各村で実施している。PLA は、2日間の日程で行なわれ、1日目は、自己紹介やゲームなどをし、参加者とAMDA職員の間の交流を深め る。AMDAの紹介や、フードフォワークの内容や目的の説明を行なった後に、参加者を2、3のグループに分け 、コミュニティーの地図を作成し、グループごとに発表を行なう。2日目は、コミュニティー内における問 題の分析を行ない、その理由と解決策を議論する。参加者は問題に優先順位を付け、優先的な問題(ニーズ )に関して、その実現のために必要なステップ(行動順序)と制約(問題)を話しあう。例えば、水のタン クの設置に際する必要なステップは、労働、資機材(鍬、鋤などの工具、木材、石、砂、セメントなどの材 料)、設計、数、設置場所などである。参加者は、こうした必要なステップを細部にわたって議論すると同 時に、材料の調達や工事費用などの制約を見極め、その解決策をAMDAの技術者や社会開発員とともに模索す る。こうした過程は、コミュニティーによる積極的関与を促がし、依存体質を防ぐ上で重要である。2日間 のワークショップを通じて、コミュニティー内で調達可能な労働力や資機材に関しては村が貢献し、現地で 入手が困難な資機材や労働の対価である米の配布に関してはAMDAが責任を持つことを取り決め、ようやく行 動計画が完成する。フードフォワークは、その行動計画を下に行なわれる。
 AMDAはこれまで、12の村でPLAのワークショップを行なってきた。 PLAを通じて、村の生活に密着した医 療、農業、教育など多岐にわたるニーズが明らかになりつつある。以下、それらのニーズに光を当てること により果敢の実情に迫っていく。

医 療

1993年にケシの栽培の全面的禁止が実現して以来、果敢では中国系開業医の数が減少し、健康状態が悪化し ている。以前に比べて収入が減少し、医薬品に割くことができる現金が減少したため、貧しい農家は伝統医 療や無免許医師、あるいは植物の根(伝統医療)などに頼らざるを得ない状況にある。 医薬品の不足は日 常茶飯事であり、無医村が多い。AMDAが事業を展開する満楽と小街の主な疾病はマラリアであり、特に雨季 の最中と雨季の終わりの収穫期に患者が多く発生する傾向にある。果敢には、ミャンマーの保健行政サービ スの一環である国境地域診療所が存在するが、その存在は村人の間であまり知られておらず、また言語の問 題が村民とミャンマー人医療スタッフの間のコミュニケーションを難しくしている。

農 業(米)

果敢は、1993年以前、「黄金の三角地帯」の一角に位置していた。ケシは手頃な換金作物であり、貧しい農 家によってケシ栽培が100年以上にわたって行われてきた。ケシの栽培は手がかからず、秋に種まきをする と、春にケシの花が咲き、翌年2月に収穫が可能である。農民はケシ栽培から得られた収入で主食の米を購 入してきた。しかし、1993年にケシの栽培の全面的禁止が実現して以来、果敢では食糧の不足や収入の減少 に直面している。
 そのため、WFPは、国際NGOとの協力の下、2003年より、果敢地区における食糧不足を緩和するために、緊 急食糧支援を行なってきた。また、近年、新種の稲やトウモロコシが中国から導入され、果敢に定着しつつ ある。果敢茶を栽培する農家も増加している。お茶は1960年代初め、先見性のある農民によって栽培が始め られた。5日に1回開かれる市では、お茶の売買が盛んに行なわれる。満楽と小街地域では、ソバの栽培が部 分的に行なわれている。
 しかし、農業面における課題は多い。果敢における農業は、厳しい気候条件によって大きく左右される。 2004年10月の収穫期の段階で、稲の病気や害虫、大雨洪水による収穫量の減少が報告されている。また、肥 料の不足は依然として深刻であると同時に、山岳地帯に位置する果敢では、耕地面積が慢性的に不足してい る。ビルマ共産党時代に確立していた税制を通じた再分配の制度は、現在は皆無であり、主食の米に関して は、国際社会の援助に頼らざるを得ないのが実情である。

教 育

学校給食活動の結果、米の配布がインセンティブとなり、とりわけ満楽地区で小学校の生徒数が急増してお り、校舎の修復や拡大、あるいは新校舎の建設が早急に求められている。校舎は、地元で取れる竹とブロッ クととたん屋根という素朴なつくりであり、異なる学年の生徒が同じ空間で勉学に励む光景は、昔の日本の 分校を思い出させる一面がある。(本誌表紙参照)村や学校委員会には修復や校舎拡張のための予算がない ため、国際社会に支援を呼びかけている。
 また、果敢では、現在、ミャンマー教育省の下にあるミャンマー学校と、果敢自治政府の下にある中国学 校の2つ教育制度が機能している。満楽村区には7つの小学校があり、そのうち3つの学校が、また、小街地区 では同じく7つの小学校があり、そのうち2つの学校がミャンマーと中国学校の学び舎をともにしている。残 りの学校は中国学校である。子どもにミャンマー語を学ばせたいと願う両親は多く、村にミャンマー学校が ないため、子どもを隣村の学校に送るケースが多々ある。ミャンマー語を習得することにより、将来の可能 性は確実に広がる。ミャンマー教師を招聘する場合、ミャンマー行政の複雑な行政手続きを経なければなら ず、迅速な対応が難しいのが実情である。

過渡期にある果敢−。筆者は、果敢における和平の存続と将来の発展のため、支援を継続・拡大していくこ とを願っている。




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